
(歴史ライター:西股 総生)
宇和島伊達家2代宗利のときに現在の形に
久しぶりに、宇和島城に会いたくなった。
宇和島は、遠い。朝、新横浜から新幹線に乗って、岡山で特急「しおかぜ」に、松山で「宇和海」に乗り継いで、着けばもう夕方である。飛行機で松山まで行けば、もう少し早いのかもしれない。でも、「遠さ」を実感してみたかったので、あえて鉄道を選択する。距離を時間として浪費するのは、「大人の贅沢」なのである。

近世城郭としての宇和島城を築いたのは、豊臣秀吉から7万石を与えられて当地に入部した藤堂高虎だが、城と街を今見る形に整えたのは、伊達秀宗にはじまる宇和島伊達家である。
秀宗は伊達政宗の長子ではあったが、妾腹のため本家の家督は嗣がず、大坂の陣ののち幕府から10万石を与えられて宇和島に入った。城が現在の形となったのは寛文年間(1661〜73)、2代宗利のときである。

宇和島の駅を降りて、通りを歩いてゆくと、ほどなく小高い丘の上に白亜の天守が見えてくる。貴重な現存12天守の一つである。城じたいは、小高い丘の上から山麓の平地にかけて曲輪が展開する典型的な平山城で、縄張の基本形は藤堂高虎の手になるものだ。
三ノ丸跡の一角にある観光案内所の前から登りにかかると、道はすぐ二手に分かれる。ここは、長門丸や藤兵衛丸を経由する右手の道をたどろう。石垣は各時代のものが混在しているが、藤兵衛丸のあたりは藤堂時代の古式な石垣がよく残っている。藤兵衛丸から本丸までは、高石垣に見下ろされながら狭い道を何度も折り返しながら上ってゆく。縄張にあまり詳しくない人にも、守りの堅さが実感できることだろう。

たどりついた本丸は、正面が端正な切り込みハギの石垣になっている。このあたりが寛文年間の改修によるところで、石垣に詳しくない人にも藤堂時代の石垣との違いは一目瞭然だろう。石段をあがると、本丸の奥まったところに三重の天守が端座している。
「キナ臭さ」がない天守の入口
この天守の最大の特徴は、入口が玄関の構えになっていること。内部には障子戸などの建具も使われていて、松江城や姫路城のような「キナ臭さ」がない。寛文年間に建てられた天守には、平和ムードが漂うといわれるゆえんだ。


ただ、よく見ると窓の格子が五角形をしている。一応、写真を載せておくが、ぜひ自分の目で実物を確かめてほしい。これは鉄炮の射界を確保するための工夫で、最上階には煙抜きの天窓も備えてある。いかに平和な時代とはいえ、建てる以上は戦闘を意識するのが天守という建物の本性らしい。城とは、どこまでいっても軍備なのだ。

建物から出て、あらためて外観を眺めてみる。正面は端正なシンメトリーデザインだ。破風のレイアウトだけでなく、壁の高さもバランスを考慮しているので凝縮感がある。にもかかわらず玄関だけは中心線を外して、あえてシンメトリーを崩している。
側面は千鳥破風と唐破風を中心線上に重ねただけなので、一見すると芸のないレイアウトに思える。でも、このデザインは城下から眺めると、なかなか堂々としてカッコいい。中心線上に破風を重ねることによって、高さ感を演出できるからだ。いろいろな意味で、「日本の城」を煮詰めたような天守ではないか。

宇和島伊達家は10万石だから、大名としては中堅どころといったところだ。それでも、仙台伊達家の分家ではなく、あくまで別家という意識が強かった。おかげで宇和島は、文化度の高い地方都市として発展した。幕末の藩主である伊達宗城(むねなり)は、越前の松平春嶽・薩摩の島津斉彬・土佐の山内容堂と並んで、四賢候と称されている。
そんな城下町だから、食べるものもおいしい。名物の鯛飯など、他所では味わえない独特の美味である。うん。たっぷり時間をかけて、来てよかった。遠くて不便なことの「ありがたさ」を、存分に楽しむことができたのである。
