(英フィナンシャル・タイムズ紙 2025年2月13日付)

毛沢東主席と握手するリチャード・ニクソン大統領(1972年2月5日、写真:AP/アフロ)

 米国は1949年以降、中国を「失った」ことを何年も悔やんでいた。

 この線の自責の念によれば、ハリー・トルーマンがもっとしっかりしていたら、蒋介石の国民党をもっと支援していたら、そして欧州と日本の復興にあれほど体力を割かずに済んでいたら、地球最大の国が共産化することはなかった。

 この問題について中国自体にも言い分があったかもしれないということは、非難の応酬のなかで時折かき消された。

「誰が中国を失ったのか」という問いの21世紀版は、「誰が中国を(そしてインドやほかの国々を)強くしたのか」だ。

 共和党の政治家や少なからぬ数の民主党の政治家がますます次のように考えるようになっている。

 米国は世間知らずな政権が続いている間に貿易に国を開いてしまったが、抜け目のない諸外国はそうしなかった。

 その結果、米国は相対的に衰退した。それゆえ中国が超大国になるのを「許してしまった」――。

 この不思議な説が廃れずに残る限り、ワシントンの保護主義フィーバーも廃れずに残るのだろう。

貿易が中国の台頭を「許した」のか?

 従って、いくつかの思い違いを正しておく価値はある。

 貿易の世界に中国の加入を認めることについては、米国やそのほかの国々の政府から抵抗があった。

 中国の保護主義を理由にする国もあれば、人権問題を持ち出す国もあった。

 1995年の世界貿易機関(WTO)設立時に中国は加盟を許されなかった。

 異例なほど厳しい条件を付されて加わったのは2001年のことで、その頃には改革開放路線を打ち出した鄧小平の演説から23年の歳月が経過していた。

 米国政府がその軽率さとリベラル派の無知ゆえにキツネを養鶏場に招き入れたという考え方は、こうした記録に合わない。

 次に、たとえ米国が貿易を控えることで「米国以外の世界」の経済発展を減速させることができたとしても、それが米国自体に何のコストももたらさなかったと考えられるのか。

 1990年代と2000年代のインフレ克服は洞察力のある中央銀行の政策によるところもあったが、アジアに新たに誕生した製造業の中心から安価な製品が輸入されたおかげでもあった。

 グレート・モデレーション(大いなる安定期)の間、米国内は平和で金利も低く、立派なベンチャー事業が商業的な成功を収められるようになった。

 いわゆるFAANG(フェイスブック=現メタ、アップル、アマゾン・ドット・コム、ネットフリックス、グーグル)は1社を除いてすべてミレニアム前後の数十年間に設立された企業だ。

 米国が中国の発展を見事に妨害した並行現実を創り出そうというのなら、その妨害が米国にもたらす不都合な面も合わせて考慮しなければならない。

 また、たとえ中国が貿易において裏表のある行動を取ったとしても、貿易システムへの参加容認に代わる選択肢にはどんなものがあったのか。

 西側諸国とその後押しによって設けられた国際機関とが、全人類のおよそ2割が暮らす国を締め出すつもりだったのか。

 それも、30年かけて共産主義経済から(不完全ながらも)抜け出した国だ。

 もしそんなことをしていたら、世界の貿易体制は正統性を失っていただろう。