当時の3000円というのは、相当の金額です。それが陸軍大臣によって調達されているということは、関東軍だけの謀略ではなく、東京の参謀本部や陸軍省が後ろにいたということなのですね。
ゆえに、田中首相が調べはじめると陸軍の妨害が入り、「あなただって陸軍出身でしょう」などと現役幹部から牽制されるわけです。
そこで天皇の側近らからガンガン言われて田中首相はついにやむを得ず、昭和4年5月6日ですから、ほとんど事件から一年近くたって再び天皇のもとへ行き、「実はこれは陸軍がやったのではありません。陸軍とは一切関係のない話であります」と報告し、また表向き手を組んでいた張作霖を警備する義務があった、という点では、仮に関東軍に責任が生じるとしても、ほんの軽い行政処分で済ませたい、などと言うわけです。

「陸軍の関与なし」報告に天皇が激怒
天皇はびっくりしました。最初は、これは陸軍の謀略かもしれないので犯人は厳罰に処しますと約束しておきながら、約半年もすっぽかした挙句に一切関係ないというのですから、天皇はかんかんに怒ります。
『独白録』によると、
「田中は再び私の処にやって来て、この問題はうやむやの中に葬りたいという事であった。それでは前言と甚だ相違した事になるから、私は田中に対し、それでは前と話が違うではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云った」
これは少し間違ったところはあるのですが、ともかくこう回想しています。
この天皇の怒りを受けて、側近である内大臣牧野伸顕(まきののぶあき)と西園寺さん(西園寺公望、さいおんじきんもち)が5月6日に会い、陸軍の態度をこのまま見過ごすわけにいかないのではないか、と相談します。その会談のようすは牧野さんの日記に書かれていて、西園寺さんがビシっとしたことを言っています。