ところが裏では、重臣たちの動きを察知した陸軍が、黙ってはいないぞとばかりに策動をはじめました。

 後に陸軍大将になる岡村寧次(おかむらやすじ)少佐の昭和4年の日記に残っています。

「一・一七 木曜会、永田(鉄山)、岡村、東条(英機)。『政治と統帥』が議題。
二・一〇 二葉会、渋谷の神泉館で。黒木、永田、小笠原、岡村、東条、岡部、松村、中野参集。在京者全部出席。河本事件につき協議す。
三・二二 二葉会。爆破事件(河本事件)人事等につき相談。
六・八 二葉会、九名全員集合。河本事件につき話す」

 こういう記録がずっと残っているのです。

 のちの陸軍をしょって立つ有能な中堅クラスが二葉会というグループをつくり、その全員が集まって「張作霖爆殺事件をなんとかごまかそう、うやむやにしてしまおう」という相談をしているわけですから、陸軍の長老である田中義一首相はどうにも動けず、言葉を濁さざるを得ないんですね。そうして両者の思惑がぶつかり、とうとう天皇自ら田中首相に対して辞職勧告をすることになります。

第3回 田中内閣総辞職で張作霖事件は決着も、苦悩する昭和天皇
につづく。