関東軍のハイラル要塞
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(文+写真:船尾 修/写真家)

 満洲国が誕生してから突然の終焉を迎えるまではわずか13年半。ただ実際には日露戦争に勝利して満洲におけるさまざまな利権を手にし、この地に礎を築き始めてからの期間を含めると、約40年間が満洲という不完全な国家が存続した時間であった。

 ロシア人や満洲人が築いてきた都市の遺産を引き継いだとはいっても、たとえば首都の新京においては荒野を切り拓き、厳密にデザインされた都市計画に沿ってまったく新たな価値観のもとで都市を建設していったわけで、それが短期間で実行に移されたこと自体は驚嘆すべきことだと思う。

 上下水道を整備し、住宅に蒸気によるセントラルヒーティング・システムを導入し、現代にも通用する幅の広い舗装道路を建設。高等教育までの教育機関を整え、世界最速の高速鉄道を走らせる。そして統制経済により短期間で経済成長を実現し、中国大陸で随一の重工業地帯をつくりあげ、同時に集約型で国際競争力のある農業を育成していった。

 そこには日本人の知と行動力を総動員させて、これまでどの国もなしえなかった先進的な都市国家をあらたに建設するのだという一本筋の通った理想があったからだと思う。しかし、満洲という土地は歴史的に日本が領有していた時代が過去にまったくなかった「未知の地域」であったわけで、そこには数千年の歴史を有する多民族の暮らしがすでにあったという事実には目をつぶっていた。

 日本から離れた場所で近代国家を短時間で出現させたいっぽうで、国内では泥沼のような戦争から抜け出すことができず、行き着くところまで突き進んだ挙句に、結果的にすべてを失って破滅を迎えるというまさに波乱万丈の道のりを歩んだのである。

 あまりにもアンバランスなこの両極端に見える結果を私たちはどのように受け止めたらよいのだろう。その原因を考えることが、「満洲国とはいったい何だったのか」という命題に答えることにつながると思うし、それはイコール日本という国を客観的に評価する視点にもなりえる。

 しかし戦後の日本は、このときの失敗の本質についての原因究明を十分に行ってきたとは言い難い。「すべてを水に流す」という日本人特有の便利な言葉によって、過去の出来事をあいまいにしたまま戦後のスタートを切ってしまった。放置されてきた過去の事象を再び歴史という俎上に載せるのは簡単なことではないが、満洲に残存する建築物を一つひとつ検証していく作業はもしかしたら全体像を俯瞰するためにパズルの一片をていねいにつなぎ合わせることにつながるのかもしれない。

 今回が最終回となる連載だが、読者のみなさんにはその面倒な作業にもう少しだけ我慢して付き合っていただけたらと思う。

関東軍ハイラル要塞

 冒頭の写真は地面を掘り下げてつくった関東軍の「ハイラル要塞」である。

 現在の中国とロシアの国境は、戦前は満洲国とソ連との国境であった。日本の防衛という観点からすれば、満洲の大地は敵国のソ連との間に横たわる緩衝地帯として見ることができるかもしれない。実際、軍部はそのように考えていたことだろう。