老中に上りつめる

 意次は明和4年(1767)7月、側用人(そばようにん)に昇進する。

 側用人の本来の主な職務は将軍に近侍し、将軍の命令を幕政のトップである老中へ、老中からの上申を将軍へと、それぞれに伝え、両者の間を取り次ぐことである。五代将軍・徳川綱吉の時に新設された。

 位階も従四位下に上がり、二万石に加増され、相良に築城することも認められた。意次はついに、城主(城持大名)となったのだ。

 当時、半数近くの大名は、城主ではなかった(安藤優一郎『田沼意次 汚名を着せられた改革者』)。

 さらに、明和6年(1769)8月には、老中に準ずる老中格に昇進し、明和9年(1772)1月には老中に昇に上りつめている。

 意次は老中になってからも、命じられて、側用人としての職務も続けた。

 幕政を担う老中と、将軍の意思を伝える御用人を事実上、兼任することで、意次は絶大な権力を手にする。

 また、将軍の一門や、幕府の要職にあった大名や旗本などと姻戚関係を結んで、権力の基盤を固めていった。

 天明3年(1783)11月には、意次の嫡男・田沼意知が老中に次ぐ地位である若年寄に登用された。

 父が老中で、その子が若年寄の座に就くというのは、異例のことである。

 父子で幕政の実権を握り、意次の権勢はまさに絶頂を迎えた。意次は65歳、意知は35歳の時のことである。

田沼時代

 意次が側用人の座に就いた明和4年頃から天明6年(1787)までの約20年間は、意次が幕政を主導したことにより、「田沼時代」と称される。

 意次は田沼時代、幕府の財政難を解消するために、下総国(千葉県北部と茨城県南西部)の印旛沼干拓計画、蝦夷地(北海道)の開発計画、ロシアとの貿易計画、長崎貿易の拡大、株仲間の積極的な公認など、大規模な開発や金融政策を打ち出していく。

 意次による一連の施策は歳入を上げた。

 だが、幕府は民間からの献策を積極的に取り入れたため、そこに利権を感じ取った商人たちが頻繁に賄賂を贈り、政治の腐敗は進んだ。

 しかし、商人が関連部局の役人に賄賂を贈るのは、田沼時代に始まったことでなく、以前から、日常的に行なわれていたという(以上、安藤優一郎『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』)。

 やがて、田沼時代は意外な形で終焉を迎えることになる。