刑法の歴史を正しく認識していないと、恥ずかしい思いをするだけではなく国家を間違った方向にも進めかねない(写真はドイツ連邦裁判所、Gerd AltmannによるPixabayからの画像)

 畏友・郷原信郎弁護士と神戸学院大・上脇博之教授による斎藤元彦・兵庫県知事とPR会社女性社長への刑事告発。

 警察、検察とも異例といえる速さで受理されたわけですが、何か箸にも棒にも掛かからないケチをつけられているのを目にしました。

 はっきり言って問題外です。でも、社会には合法と違法の区別がつかない人もいるわけです。

 そうした中で111万ほどの票がかき集められ、「斎藤候補」の再選という悪い冗談のような結果になってしまった。

 公職選挙法違反の可能性がある選挙活動で、数字の上で「当選」の票数を獲得しているわけですから、是は是、非は非と正す必要があります。

 資料に目を通すうちに、郷原さんへの批判がすっ飛ばしている中に、團藤重光先生の「主体性の法理」が深く関わっていることに気が付きました。

 私は團藤先生には親しくご指導いただき、また「あとはどうか、よろしく頼むよ」などと身に余るお言葉もいただいた経緯があります。

 團藤先生とは朝日新書で共著「反骨のコツ」があり、そのため依頼を受けて私が書いた、團藤先生への朝日新聞の弔辞は一部法律関係者には不評だったようです。 

 しかし、「陽明学の原点」などまで立ち返る團藤先生の議論を21世紀の法律家が軽視したのもまた事実。

 私は先生のおっしゃる内容を字義通り、正味で大切に受け止めています。ということで、以下、できる範囲で重要なポイントついて解説してみます。

 今回は「人格責任論/主体性の法理」の基礎から、いかに斎藤元彦選対がやらかしたことが最低最悪の公選法違反であり、問題にならない不法な選挙活動であったかを、腑分けしてみましょう。

 以下、郷原弁護士に対する言いがかり(あえて固有名詞など出す必要を感じませんので省略します)の一例を示します。

「選挙ポスターの制作」は「選挙運動に当たるか?」という立論に対して、郷原さんたちは、「それが主体的、裁量的であれば、選挙運動になりうる」(だから、それに対価を支払えば買収が成立する可能性がある)」ことを淡々と指摘する、ごく当たり前のことを言っています。

 これに対して郷原さんたちへの批判の主は、「選対内部でのポスター作りは、有権者が知るわけもないことなので、一切『選挙運動には当たらない』」と、法律の専門家とは思えない議論をふっかけてきた。

 飛んで火にいる夏の虫とはこういうことを言うように思います。

 この「論点以前」については、元テレビ朝日の西脇亨輔弁護士が分かりやすい動画を挙げていますので、そちらもご参照ください。

 郷原さんは次のようにツイートしています。

「・・・西脇弁護士が、法学部生レベルや一般の人にも分かるように、噛んで含めるように丁寧に説明している」

「『判例にポスター制作は選挙運動と書いてあるのか』という“言いがかり”に、『判例と当該事案が全く同じということはあり得ないが、そこで示されている一般論を、具体的事案に当てはめていくもの』という当たり前のことを、嚙み砕いて説明している・・・」

「私には、福永弁護士(郷原弁護士を批判している弁護士=編集部注)からのヘドロのような愚論に、このように丁寧に答える体力、気力は、さすがにない。こうして、福永弁護士の誤った言説を正してくれる西脇弁護士の解説は大変貴重」

 ここで、批判の主が間違って引用してしまったのが昭和53年1月26日、最高裁判所第一小法廷、岸上康夫裁判長、裁判官=團藤重光、藤崎萬里、本山亨裁判官による判決だったんですね。

 我が團藤重光先生の「主体性の法理」が縦横に展開される典型的な判決になっていました。

 ところが、さて、何をどう間違えると、こういう見識が生まれてくるのかただただ謎なのですが、上記の判例を挙げて、批判の主は「ポスター制作が選挙運動に当たるなどと述べていない」が「(この判例を)引用する意味」が分からないと書いている。

 この判例には一体、何が書かれているのか?

 團藤刑法学は、一体何が「選挙運動」「公選法違反」にあたると判断しているのでしょうか?