故意犯と過失を分かつもの

 例えばいま、「金属バットをフルスイングする」という「行為」があったとしましょう。

 それが誰かの頭部にぶつかり、重篤な怪我を負わせてしまう事態が発生したとします。

 警察は、あるいは検察や裁判所は、何をどう考えるべきでしょう?

 古代バビロニア、ハンムラビ法典であれば、目には目を、歯には歯を、で、フルスイングした人にも同様に、フルスイングの一撃をお見舞いする「復讐法」の刑罰規定を定めました。

 しかし、これよりも350年も古いウル・ナンム法典も、あるいはローマ法も、こうした事件・事故に対して損害賠償を定めています。

「復讐法」が可能になるには強大な警察・軍事権力が必要なのです。

 そうでないと、復讐に対する復讐の泥沼になってしまう。

 例えば、「忠臣蔵」では「浅野方」が「吉良」を討ったらそこまで。吉良の遺臣が再度、浅野の残党を襲えない強大な幕藩武力があるから「仇討ち」が可能になるのです。

 何にしろバットを振り回して人を傷つけたら「暴行・傷害」の罪に問われそうですが、現代の刑法典は「故意犯」と「過失犯」とを区別します。

 つまり、何の悪気もなくブルペンで素振りの練習をしていて、誤って取材記者をぶっ叩いてしまったら、それは「過失傷害」罪に相当します。

 一方で、入念に計画を立てて、恨みを持つ相手を金属バットで襲ったのであれば、明らかな「犯意」を持っているわけで、傷害罪に問われる。

「犯意」を持つ、つまり「主体性」を持ってその犯行に及んでいるか、否か、が罪名の決定と量刑の評価を本質的に左右している。

「斎藤元彦」と「メルチュ女社長」のケースも、この「犯意」すなわち「主体性の有無」が「選挙運動」と「単純労務」とを区別し、「選挙運動」に対して対価を支払っていれば、それは「買収」に相当する、というのが「岸上判決」を正しく援用する兵庫県公選法違反事件への解釈になります。

 つまり、郷原弁護士の指摘する通り、斎藤元彦「知事」とPR会社「女性社長」は完全に意図的ですからクロ、「主体性」を持って選挙違反に及んだ容疑が明らかですから、刑事告発は当然です。

 ロースクール以降の世代で、司法試験はなんとか定員内に入っても、法や判例を読む基本的な力がない法曹(結構たくさんいます)は、こういう残念な失敗をやらかしてしまうのですね。

 さて、金属バットで人の頭を殴ってしまった場合も、犯意の有無で量刑には天地の差が分かれます。

 責任の大小ははっきりしており、過失傷害罪は刑法209条1項に規定され、その刑事罰は30万円以下の罰金または科料(1000円以上1万円未満)、懲役等は科されません。

 これに対して、傷害罪とは刑法204条に規定され、人の身体を傷害した者は「十五年以下の懲役又は五十万円以下の罰金」に処されます。

 こうした「過失責任」の考え方は、大まかに「イスラム法典」(シャリーア)以降で発展、西欧にもたらされたのはトマス・アクィナス神学大全」以降のことです。

 こういった内容を、1990代に入ってカトリックに入信された團藤先生と「神学大全」や、岡山の儒者・山田方谷の著作を並べての検討を、かつて私は30代後半から40代半ばにかけて團藤先生とご一緒させていただいた時期があります。

「刑法における主体性」といった大問題は、ここで正面から取り上げることはできません。

 しかし、近代の曙光というべきフランス革命前後(18世紀末)の「旧派刑法学」が人間の自由意思を重視し、意図的に反規範的に振舞う行為に刑事責任を問いました。

 これに対して、ダーウィン進化論以降の「新派刑法学」(19世紀後半~ 明治維新期、西欧刑法典が輸入された時期には十分「新派」だった)では、犯罪を犯すものは生得的にその傾向を有するとする「決定論」に立脚、そこから「優生学」のような似非科学が派生します。

 ついには、「ユダヤ人は生まれながらにして犯罪者である」といったナチスのあり得ない言説と、それに基づく「ニュルンベルク法」とホロコーストという「公共事業犯罪」が発生してしまった。

 これらは團藤先生にとっては過去ではなく、2.26事件当日は東京大学助手、戦時中は助教授、戦後はGHQと交渉しつつ、新憲法下での刑事訴訟法体系を手ずから作られた「昨日の現実」にほかならなかった。

 だから、團藤先生は「ファシズム、ファシストの再勃興」に対して極めて用心深くこれを回避することに留意されました。

 人間の尊厳を守る法治実現の本質を「人格責任論」に求め、文化としての法秩序を模索され、その到達点として「主体性」の法理が整えられた。

 ウィーン生まれのユダヤ系科学哲学者カール・ポパーの「可謬性」の議論、あるいは自らも強制収容所に収監され家族を失ったユダヤ系精神病理学者ヴィクトール・フランクルの実存分析などの方法も参照して、第2次世界大戦後の新しい「人格責任論」刑法典における主体性の問題を、ゼロから問い直された。

 そういった思索のカケラほども、郷原弁護士に文句をつける批判の主の脳裏には存在していない。

 いやはや、あまりにも低レベルで、こんなものにまとわりつかれて郷原さんもいい迷惑と同情せざるを得ませんでした。