意次、嫡男を失う
天明4年(1784)3月24日、田沼意知が江戸城中にて、知行五千石の旗本・矢本悠馬が演じる佐野政言(まさこと)に斬りつけられるという刃傷事件が勃発する。
佐野政言は捕えられたが、事件から2日後の3月26日、意知は傷が原因で、36歳で命を落としてしまった(藤田覚『田沼意次 御不審を蒙ること、身に覚えなし』)。
意次は後継を失ったのだ。
同年4月3日、佐野政言は切腹となり、浅草の徳本寺に葬られた。
この年は大飢饉で、米の価格も高騰。人々は苦しみ、田沼政権への不信感を強めていた。
ところが、佐野政言が切腹した翌日から、なぜか米の価格が下がり始めたという。
すると、世間の人々は佐野政言を「世直し大明神」と祀り上げ、御利益を授かろうと、政言の墓所のある徳本寺に殺到した。
対して、田沼意知の葬列には町人たちが石を投げ、悪口を浴びせたという。
意知の死をきっかけに、人々の田沼政権への不満が噴出していく。
意次、失脚
天明6年(1786)7月、関東を襲った大雨が大洪水を引き起こし、莫大な費用をかけた印旛沼干拓計画が頓挫する。
同年6月に発令した全国御用金令も強い反発を招き、撤回に追い込まれた。
意次の責任を問う声が上がり、窮地に追い込まれるなか、同年8月25日に、十代将軍・徳川家治がこの世を去った(公式には9月8日死去)。
意次は、最大の後ろ盾を失ったのだ。
同年8月27日、意次は病を理由に老中を辞した。
同年閏10月、二万石が没収され、謹慎が命じられる。
同年12月に謹慎は解かれたが、天明7年(1787)6月に、寺田心が演じる松平定信が老中首座に就任し、同年10月、意次は二万七千石の没収と隠居、蟄居謹慎が申し渡された。
松平定信は意次の政敵で、意次を敵視していた。
二度におよぶ厳封により、意次は五万七千石の大名から、一万石の大名になった。
完全に失脚した意次は、表舞台に返り咲くことのないまま、天明8年(1788)7月24日、70歳で死去している。
なお、老中首座となった松平定信が主導した「寛政の改革」は、蔦屋重三郎の人生に大きな影響を与えることとなる。