六千石の旗本から大名へ
延享2年(1745)11月、家重が九代将軍に就任して本丸へ移ると、意次も本丸勤めとなり、引き続き小姓を務めた。
翌延享3年(1746)7月には小姓頭取(小姓のトップ)に昇進。
延享4年(1747)9月には小姓組番頭格の御側御用取次(おそばごようとりつぎ)見習に登用され、寛延元年(1748)閏10月には、小姓組番頭に昇格。御側御用取次見習と兼務となり、知行二千石の旗本となる。
寛延2年(1749)には、後妻である黒沢定紀(さだのり)の娘との間に、嫡男・宮沢氷魚が演じる田沼意知が誕生した。翌寛延3年(1750)には、蔦屋重三郎が吉原で生まれている。
宝暦元年(1751)7月、意次は御側御用取次に昇格した。この年、徳川吉宗が68歳で没している。
宝暦8年(1758)9月には、遠江国相良藩(静岡県牧之原市)一万石の大名となった。
意次は六千石の旗本から大名へと、異例の大出世を果たしたのだ。意次は40歳になっていた。
十代将軍・徳川家治にも重用される
宝暦10年(1760)5月、九代将軍・家重は大病により引退し、同年9月、家重の嫡男・眞島秀和が演じる徳川家治が十代将軍となった。
通例では将軍が代替わりすると、前将軍の側近団は職を免じられる。
ところが、意次だけは引き続き、新将軍となった家治の御側御用取次を務めるように命じられた。
異例の事態であるが、それは「田沼意次は正直で律儀者だから、引き立てて召し使うように」という家重の指示(『徳川実紀』第十篇)を、家治が守ったからだともいわれる。
家重は宝暦11年(1761)6月に没したが、意次は家治からも重用され、よりいっそうの出世を重ねていく。