「伝説の名将」中村清

 話を早稲田の中村清監督に戻す。箱根駅伝ファンの間では「伝説の名将」とも言われるが、「迷将」気味の時も少なからずあった。早大競走部の選手時代は、1936年に開催されたベルリン五輪の1500mの日本代表になり(結果は予選落ち)、戦時中は、中国大陸で憲兵隊長を務め、復員後、荻窪の闇市でタバコや焼酎を売りながら、昭和21年から早大駅伝チームを指導した。箱根駅伝で昭和27年・29年と2度の総合優勝に導いたが、競走部OBで自民党の大物政治家だった河野一郎氏と対立し、コーチを解任された。

1981年4月、ボストン・マラソンを初制覇し帰国会見、優勝メダルと月桂樹の冠を披露する瀬古利彦選手と中村清監督。中村氏は瀬古氏の早大卒業・ヱスビー食品入社にあわせて、早大競走部とヱスビー食品陸上部の監督を兼任するようになった(写真:共同通信社)
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 中村氏が再び早大の指導者になったのは、筆者が競走部の門を叩いた昭和52年3月の1年前で、「毒のある男だが、地に堕ちた競走部を立て直せるのは中村しかいない」と、賛否両論が渦巻く中、監督に起用された。

 中村氏は自己顕示欲が強く、思い込みが激しく、粘着質で、敵だらけの老人だった。選手を殴ることはなかったが、「お前たちが弱いのは俺のせいだ」と、自分で自分の顔を拳骨で何十回も殴ったり、大きな双眼鏡で自分の頭を叩いて血を噴き出し、顔やシャツを血だらけにしたり、壁に頭を打ち付けて、壁をへこませたりした。当時、60代半ばで、糖尿病、高血圧、狭心症を抱えていたが、選手たちが走っている間は、雨だろうが雪だろうが夜遅くだろうが、カッパ姿でずっと立って見守っていた。

 2度目の監督に就任し、中村氏が最初にやったのは、選手全員を坊主頭ないしはスポーツ刈りにすることだった。それまで自由な雰囲気でやっていた学生たちは、当然のことながら反発した。中村氏は、髪を切らない選手たちには、髪を切れと執拗に迫り、自分自身も坊主頭にしたりした。

 筆者の一学年上の短距離選手の腹に鋏を突きつけ、「髪を切るか、鋏がきさまの腹に突き刺さるかどちらかだ」と迫ったこともあった。その時は林さんという主将が「逃げろ!」と叫び、選手がグラウンドのそばにあった競走部の寮の中に駆け込むと、追ってきた中村氏は「逃げたな! お前はもうクビだ! 明日から来なくていい!」と怒った。

 数日後、その選手は頭を丸め、林氏のとりなしで中村氏に赦されたが、一連の出来事によるストレスで高熱を出し、直後の関東インカレを棒に振った。