かつての伴走車は陸上自衛隊のジープ
その翌年の関東インカレ前に、またひと悶着起きた。今度は、大会直前に父親が亡くなり、葬儀のために短期間郷里に帰った短距離選手がいて(鋏事件とは別の選手)、それに中村氏が腹を立て、「お前が田舎に帰って父親が生き返るのか!? 大事なのは、試合でいい成績を収め、墓前に報告することだろう!」と激怒した。
短距離チームが怒られるのを覚悟の上で、その選手を3走に入れた関東インカレの4×100mリレーのメンバー表を監督に提出すると、「こいつを入れて負けたら、俺に何発殴られてもいいんだな?」とすごんだ。4年生の一人が「私でよければどうぞ。みんなで決めたベストメンバーですから」と緊張しながら答え、何とか許可を取り付けた。
結果は優勝で、全員で報告に行くと、「世界一になったみたいにはしゃぐな!」と叱りつつ、ご満悦だったという。
当時、箱根駅伝の伴走車は陸上自衛隊のジープで、フロントグリルに大学名を大きな白い文字で染め抜いたスクールカラー(早稲田は臙脂)のカバーをかけ、校名の幟(のぼり)を立て、戦国時代の合戦のように勇壮だった。今のように、声かけができる地点や時間に制限もなかったので、各大学の監督・コーチは、好きな時に、好きなだけ喋っていられた。
中村氏のように陸上競技に対して異様な執念を燃やし、かつ世間に自分の存在を見せつけたい人物にとっては、年に一度の檜舞台で、相当な高揚感をもってジープに乗っていたと思われる。幌付きでないジープは、乗っていると非常に寒いので、中村氏はジョニ黒を持参し、時々ラッパ飲みしていた。