かつての伴走車は陸上自衛隊のジープ

 その翌年の関東インカレ前に、またひと悶着起きた。今度は、大会直前に父親が亡くなり、葬儀のために短期間郷里に帰った短距離選手がいて(鋏事件とは別の選手)、それに中村氏が腹を立て、「お前が田舎に帰って父親が生き返るのか!? 大事なのは、試合でいい成績を収め、墓前に報告することだろう!」と激怒した。

 短距離チームが怒られるのを覚悟の上で、その選手を3走に入れた関東インカレの4×100mリレーのメンバー表を監督に提出すると、「こいつを入れて負けたら、俺に何発殴られてもいいんだな?」とすごんだ。4年生の一人が「私でよければどうぞ。みんなで決めたベストメンバーですから」と緊張しながら答え、何とか許可を取り付けた。

 結果は優勝で、全員で報告に行くと、「世界一になったみたいにはしゃぐな!」と叱りつつ、ご満悦だったという。

 当時、箱根駅伝の伴走車は陸上自衛隊のジープで、フロントグリルに大学名を大きな白い文字で染め抜いたスクールカラー(早稲田は臙脂)のカバーをかけ、校名の幟(のぼり)を立て、戦国時代の合戦のように勇壮だった。今のように、声かけができる地点や時間に制限もなかったので、各大学の監督・コーチは、好きな時に、好きなだけ喋っていられた。

1977年の第53回東京箱根間往復大学駅伝、日体大・塩塚秀夫と日体大のカバーをつけたジープ 。この大会では日体大が総合優勝を果たした(写真:産経新聞社)拡大画像表示

 中村氏のように陸上競技に対して異様な執念を燃やし、かつ世間に自分の存在を見せつけたい人物にとっては、年に一度の檜舞台で、相当な高揚感をもってジープに乗っていたと思われる。幌付きでないジープは、乗っていると非常に寒いので、中村氏はジョニ黒を持参し、時々ラッパ飲みしていた。

1980年の箱根駅伝2区。ジープに乗る中村清監督(左上)の指示を受けながら走る早大の瀬古利彦。瀬古はこの年、区間新を記録した(写真:共同通信社)
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