監督の掛け声も駆け引きのうち
新春の風物詩にもなっていたのが、中村氏が歌う校歌『都の西北』である。伴走車の監督が校歌を歌うのは、少なくとも筆者の世代以降では、中村氏以外は知らない。今では運営管理車からの指示は1回1分間以内と決められているので、校歌を歌うのは事実上無理である。中村氏の『都の西北』は、節回しが第二次大戦に敗れて瓦礫と焼け野原になった時代の日本で流行った一連の歌謡曲風で、中村氏の生きざまをも彷彿させた。
『都の西北』は卒業していく4年生のために歌うのだと中村氏は言っていたが、前後に他校のランナーがいなかったりして、指示を出すのにも余裕があるときは、学年に関係なく歌っていた。筆者も3年生(3区)のときに、平塚中継所に近づいたあたりで歌ってもらった記憶がある。
そのときは4区の1年生、井上雅喜選手にも中継点手前で歌い、当時のNHKラジオの録音を聞くと、北出清五郎アナウンサーが「お聴きになれますでしょうか? 早稲田の中村監督、熱血漢の中村監督が、校歌を歌っております。都の西北、早稲田の杜に。この校歌によりまして、選手たちを力づけております」とアナウンスし、背後に沿道の観衆の拍手やバイクの排気音とともに中村監督の『都の西北』が聞こえ、迫力満点だった。
筆者が4年生(8区)のときは、7~8km地点から不覚にも腹痛を起こして相当なタイムをロスし、15km過ぎの藤沢橋の交差点のあたりになってようやく治り、最後の6kmあまりは1秒でも取り戻すのに必死で、中村監督も「ほらほら、もっと上げてけーっ!」「ほら行けーっ! いけ、いけ、いけ、いけーっ!」「それでスパートしてるのかーっ!そんな程度しか走れないんなら、陸上なんかやめてしまえーっ!」と絶叫して、校歌を歌うどころではなかった。
こちらは〈言われなくたって、この試合が終わったら、陸上はやめますよ〉と思いながら、ロスを取り戻そうと死に物狂いで走り続けた。ただ相当なスピードで走っていると感じていたので、〈本当にこれでも遅いの?〉と信じられない気分だった。
後でラップタイムを見ると、体感通り、相当なスピードで走っていたのが分かったので、チームメイトの一人に「なんで中村監督はあんなことを言ったのかなあ?」と訊いたら、「ありゃあ、お前、速かろうが遅かろうが、みんな言われるんだよ」と苦笑したので、なーんだ、と思った。
このように声かけは、選手と監督の間でも微妙な駆け引きがあるが、チーム同士だと、もっと激しい駆け引きがある。たとえば前を行く大学の選手に、それを追っている大学の監督が「○×大学の△□(選手名)の背中が近付いてるぞー! この1kmで30秒詰まった。もうすぐ抜けるぞー! 行けーっ!」と、わざと大きな声でいって、先行する選手に後ろからプレッシャーをかけたりする(それによって前の選手が怖気づくか、あるいは逆に危機感を煽られて奮起するかは分からないが)。