マイクで「お前がこんなに下りが下手くそとは思わんかった!」

 筆者が4年生のとき、下りの6区に2年生が起用された。スピードもスタミナもある強い選手だったが、足が踵から着地するフォームなので、下りでは、一歩一歩ブレーキがかかってしまう。本人も、自分は下りに向いていないと思っていたので、エントリー前に中村監督に、他の区間にしてくれるよう頼んだ。しかし頑として受け入れてもらえず、困り果てて瀬古氏に相談したところ、瀬古氏はもっともだといって、監督に再考してくれるよう話した。

早大卒業直前の1980年2月の写真。この年に開催予定だったモスクワ五輪の代表選手になっていた瀬古利彦だったが、政府が五輪不参加を決めたことで出場は叶わなかった。左は中村清監督(写真:共同通信社)
拡大画像表示

 ところが監督は「瀬古、お前は選手であって、監督でもコーチでもない!」と怒りだし、当の2年生には「お前は、わしのいうことが聞けんのか!? わしが6区を走れといったら、走らんか!」と怒鳴りつけた。選手が「せめて試走をやらせてください」と懇願すると、もともと試走を重要視していない中村氏は、「そんなもん、せんでいい!」とますます怒った(「そんなもん、せんでいい!」は中村氏の口癖で、当時からあった全日本大学駅伝も「そんなもん、出んでいい!」と無視していた)。

 みんなが懸念した通り、本番で6区の坂道を下り始めても、その2年生のペースは全然上がらなかった。伴走車の中村監督から「そろそろ(スピードを)上げていきなさい。これ以上上がらないと思ったら、手を挙げなさい」といわれ、手を挙げたら、「馬鹿ものー!」という罵声が飛んできた。

 中村監督はその後もマイクで「この下手くそ! お前がこんなに下りが下手くそとは思わんかった!」と怒り続け、挙句の果てに「早稲田頑張れー!」と沿道で応援している人たちに向って「こんな下手くそに応援せんでいい!」とマイクで怒鳴り、走り終わった後、「なんで下りが苦手だと、わしに言わなかったんだ!?」と選手を叱りつけた(高齢で糖尿病や高血圧を抱えていたせいか、中村氏はかなりの物忘れで、筆者や金井豊氏も被害に遭った)。

 今ではパワハラへの世間の目も遥かに厳しくなり、中村氏のような強烈な個性の監督はいなくなった。それでも伴走車からの声かけは、各監督の個性、選手との関係、彼らが歩んできた人生などが滲み出るので、興味は尽きない。勝負や記録の行方だけでなく、伴走車からの声かけにも耳を澄ませ、彼らの想いに触れてみてはいかがだろうか?