「和服の姉ちゃん綺麗だったなあ、どの子が可愛いか見とけよ」

 澤木氏が米国オレゴン大学に1年間の在外研究に出た際、小出氏が代役として順天堂大学の中長距離のコーチを務めた。1979年の夏から約1年間のことだ。

 ジャージーにサンダル履きで「おお、諸君!」といってグラウンドに現れた小出氏を見て、髪型から服装まで常にびしっとして、叱り方は厳しく、選手たちも緊張感を絶やさなかった澤木氏とのあまりの違いに、皆驚いたという。話すときは「こんなん言ってっけどよう」「~だっぺ」と千葉県訛りや下ネタを交え、「よし、今日は30kmくらい行こうか、気楽にね」「次はこのくらい走ろう。行ける行ける」といった感じで選手たちを笑わせたり乗せたりして走らせた。

 しかし練習量は多く、澤木氏なら1000mのインターバル走を2分50秒で10本やらせるところを「3分くらいでいいから15本。もうちょっと行くか?」という感じだったそうである。

2008年の大阪国際女子マラソンでの小出義雄氏(左)と澤木啓祐氏(写真:YUTAKA/アフロスポーツ )
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 小出氏が、コーチとして順天堂大学のジープに乗ったのは、1980年の第56回箱根駅伝である。その時の様子を、当時3年生で5区を走り、区間賞を獲得した上田誠仁氏が、「スポーツニッポン」(2019年10月10日付)の『我が道』という半生記の中で、次のように語っている。

〈澤木先生の指導は常に理路整然としていて「今の通過はプラス何秒、この先傾斜角が強くなるからプラス10秒上乗せ」みたいな感じです。小出さんは「今、和服の姉ちゃん綺麗だったなあ。ここから小涌園行くといっぱいいるぞ。どの子が可愛いか見とけよ。その時に苦しい顔なんかしないでいい顔で走れ」ですから。何だそれと思うんですけど、気がつくと乗せられて走っている〉

 惜しくも小出氏は2019年に亡くなり、もはやその独特の語り口や指導方法に接することができないのは、残念である。