栄光のピークは、「澤木に始まり、澤木に終わった」と言われた1967年のユニバーシアード東京大会で、開会式で最終聖火ランナーを務め、5000m、10000mとも鮮やかなラストスパートで優勝し、NHKのテレビ中継を観ていた日本国民を熱狂させた。1968年のメキシコ五輪では入賞確実と言われながら、10000m決勝で右足ふくらはぎを蹴られて転倒し、29位と惨敗した。

 1973年に母校の指導者になってからは、欧米流の医科学トレーニングを積極的に取り入れ、順天堂大学に4連覇を含む9度の箱根駅伝優勝をもたらした。これは指導者としての優勝回数では最多で、2位は中央大学の西内文夫氏と日体大の岡野章氏の8回である。

 澤木氏の走る時の足音について筆者に教えてくれたのは、2年間の社会人生活をへて順天堂大学に進学し、4年生のときに箱根駅伝9区を区間新記録で走り、澤木氏に指導者として初の箱根駅伝総合優勝をもたらした竹島克己氏(元白鷗大学教授・同大学陸上部監督)だ。

今も耳に残る凄まじい足音

 それは昭和1973年11月5日のことだった。大会名は第23回青森―東京間都道県対抗駅伝。56区間、795.5kmを7日間かけて走る伝統の大会である。

 このとき竹島氏は、高校卒業後1年目で北海道の浦幌町役場に勤務しており、22人からなる北海道代表チームの一員として大会に参加していた。翌日、秋田県大館市から同早口町までの第7区(10.8km)を走る予定になっていたので、前日に大館市入りし、この日の最終区間である6区のゴールを見るため、大館市役所前の人垣の中にいた。

 6区は青森県津軽湯ノ沢駅から秋田県大館市までの21.8kmという、この日の最長区間で、各チームともエース級を投入していた。最初に、6連覇を狙う東京の大塚癸未男選手(東急)が通算タイム4時間42分13秒でゴールし、続いて神奈川県の村上清隆選手(新日鉄)が2位でゴール。その約25秒後、パーン、パーン、パーンという、アスファルトをシューズの底で叩きつけて鳴らすような、凄い足音が響いてきたという。

 最後が上り坂になったコースから、短めの頭髪をサラリーマン以上に律儀に整え、白と赤の二色の千葉県チームのタスキを肩からかけ、顔を紅潮させてラストスパートをする澤木氏(順天堂大学教員・千葉県チーム)が姿を現し、大館市役所前のゴールラインを駆け抜けたという。

 澤木氏は1968年のメキシコ五輪の後、アキレス腱痛に苦しみ、ようやくカムバックして前年のミュンヘン五輪では日本代表になったものの、5000m、10000mともに予選で敗れ、この頃には引退も取り沙汰されていた。それでもこの日は1時間6分8秒の区間賞で走り、「世界のサワキ」の片鱗を見せつけた。竹島氏は「あんな足音は聞いたことがない。とにかく音がもの凄く印象に残っている」と筆者に教えてくれた。

 瀬古氏のランニングフォームは、背筋をまっすぐ伸ばし、膝も蹴った踵も高く上がる、スピード感に溢れた走り方である。これに対し、澤木氏のランニングフォームは、上体を前傾させ、膝もそれほど高く上がらず、スピードランナー的な鋭さは意外と感じられない。しかし上体をリラックスさせ、少ない上下動で滑るようにスムーズに走る。キックの力は瀬古氏同様、非常に強いことが、足音で分かる。

 最近はアフリカ勢があまりに強く、現役ランナーも含め、ここ数十年で澤木、瀬古の両氏以外に世界で優勝争いを演じることができた日本の長距離ランナーは、円谷幸吉(東京五輪マラソン3位)、君原健二(メキシコ五輪マラソン2位)、宗茂、宗猛(ロサンゼルス五輪マラソン4位)、中山竹道(ソウル・バルセロナ両五輪マラソン4位)、森下広一(バルセロナ五輪マラソン2位)の6選手くらいだろうか。これら選手が現役時代、どんな足音で走っていたかは、筆者は直接知らないが、やはり並みの選手とは違っていた可能性があると想像している。

 箱根駅伝も年々レベルアップし、國學院大学の平林選手だけでなく、2023年2月の別府大分毎日マラソンで2時間7分47秒をマークした青山学院大学の横田俊吾選手(現・JR東日本)や、同年の大阪マラソンで2時間8分11秒をマークした東洋大学の柏優吾選手(現・コニカミノルタ)のように、日本のトップレベルの記録を出す学生ランナーも出てきている。箱根駅伝で選手たちの足音に耳を澄ますと、将来、世界の舞台で活躍する大器を発見できるかもしれない。仮にそうした発見に至らなくても、各選手の個性が感じられて面白いはずだ。

(*後編〈1月2日公開予定〉に続く)