コースは競走部のグラウンドを出て、早大グランド通りと呼ばれるアスファルトの一般道路を南の青梅街道の方角に走り、途中で左折し、「キャラメルコーン」の甘い匂いを漂わせる東鳩の工場前を通り、さらに左折し、武蔵関公園を右手に見ながら進み、さらに二度左折して東伏見駅前から早大グランド通りを下り、競走部のグラウンドに戻ってくる。
距離は1周約3.5kmで、通称「東鳩コース」。ここを走るのは、5000m×3本といったインターバル走、40km走、20kmのタイムトライアルといった強いポイント練習のはざまの疲労回復のためのジョグ(だいたい10~20km)をやるときだった。早大グランド通りは、後半、結構な上り坂で、それ以外にもアップダウンがあり、走るときに色々な筋肉を使い、気分的にも飽きないので、ジョグ向きだった。
これが超一流ランナーの足音か
ジョグのときは、タイムトライアルと違って一斉にスタートすることはなく、かつ各人が思い思いのペースで走る。その日も、いつものように筆者の前後を20人ほどのチームメイトたちが走っていた。皆、足音はだいたいパタパタパタという感じである。
ところが武蔵関公園の緑を右手に見ながら走っていたとき、後ろからバシッ、バシッ、バシッという、シューズの底でアスファルトを叩きつけるような音が聞こえてきた。まさか人間の足音とは思わなかったので、いったい何だろうと思って振り返ると、瀬古氏が左右の足首を鋭くひねるようにしてシューズでアスファルトを叩きつけながら、軽々と近づいて来た。「えっ、これが人間の足音!?」と驚いた。
中学時代は野球部だった瀬古氏は、長距離走も速かったので、四日市工業高校に進んで陸上競技部に入り、1年生でいきなり山形インターハイの800mで3位に入賞した。高校1年生の8月と言えば、中学生に毛が生えた程度のものである。それでいきなり全国インターハイで3位に入賞するというのだから尋常ではない。
当時、中学3年生だった筆者も、陸上競技の雑誌で記事を見て、こんな選手がいるのかと強い印象を受けた。瀬古氏は翌年から800m、1500mの2種目でインターハイ2連覇し、一浪して早稲田大学に入学後は、中村清監督の指導を受け、1年生で全日本インカレの5000mで優勝。その後も着実に力をつけ、大学3年生の時に福岡国際マラソンで優勝し、世界の檜舞台に躍り出た(当時、福岡国際マラソンは、ボストン・マラソンと肩を並べる、世界最高峰のフルマラソンの大会だった)。