その日、瀬古氏のジョグのスピードは、筆者より少し速い程度だったが、レースのときのような速さではもちろんなかった。バシッ、バシッ、バシッという考えられない足音を立てながら、右側から筆者を追い抜いて行くときの表情は明るく、リラックスしていた。瀬古氏はレースでは必ず筆者の遥か前にいたので、それまで氏の足音を聞くことがなく、この日がまともに聞いた初めての機会で、「これが世界の一流ランナーの足音なのか!」と、呆然として後ろ姿を見送ったものである。
筆者と同学年の慶応義塾大学競走部の長距離選手のひとりも、早慶対校陸上のオープン5000mで、瀬古氏に1周抜かれたとき、足の回転の異常な速さと、バシッ、バシッという足音に魂消たという。
「世界のサワキ」
もうひとり、尋常ならざる足音を立てて走っていた選手が、「世界のサワキ」の異名をとった澤木啓祐氏である。ここ60年間、日本の長距離界の第一人者として君臨してきた人物で、筆者より若い世代には、ランナーとしてより、順天堂大学の監督や日本陸連の選手強化本部長としてのほうが馴染みがあるだろう。
澤木氏は、中学3年で放送陸上(全日本中学校放送陸上競技大会、現在の全日本中学校通信陸上競技大会)の1500mで全国2位になり、大阪府立春日丘高校2年のときにはインターハイの1500mと5000mの二種目を制覇。翌年は、日本選手権の1500mで大学や実業団の選手に伍して2位に入賞し、インターハイには出場せず、高校生にして欧州を転戦してトレーニング方法と競技に対する科学的アプローチを学んだ。
順天堂大学では箱根駅伝に4年連続出場し、1965年にハンガリーのブダペストで開催されたユニバーシアードでは5000mで優勝した。
大学を卒業した1966年6月には、ロンドン四大学対抗競技会の5000mで、オーストラリアのロン・クラーク(東京五輪10000m銅メダル、翌年、10000mで史上初の27分台の世界新記録)や、チュニジアのムハンマド・ガムーディー(東京五輪10000m銀メダル)らを破り、13分36秒2の日本新記録で優勝し、エリザベス女王から優勝カップを手渡された。この記録は同年の世界ランキング4位で、澤木氏以降同種目で世界ランキング10位以内に入った選手はいない。