常設の特設ページで伝え続ける神戸新聞

 後世に阪神・淡路大震災を伝え続けようという試みは、ネット上でも簡単に見つけることができます。

 例えば、被災地・神戸の地元紙「神戸新聞」は【特集 阪神・淡路大震災】という特設ページを絶やしたことがありません。ページのタイトルには「あの日から、●●日」の文字。●●には1995年1月17日を起点とした日数が示されています。数字はすでに1万日を超えました。

神戸新聞社の施設「ニュースポート」での阪神・淡路大震災の展示=2023年9月撮影(写真:高田昌幸)
当時の新聞が神戸の人々に与えた衝撃の大きさを伝える=2023年9月撮影(写真:高田昌幸)

 特設ページでは、この30年間の日々を年ごと月ごと日ごとに追うこともできます。新聞社らしく時々の紙面を収容していることも特徴です。阪神・淡路大震災から1年が過ぎた日の「祈り…そして再出発 1.17 悲しみの朝」という記事は、当時の神戸市民の思いが溢れ出ています。
 
 神戸市長田区御船通の女性(64)は「きのうは地震を思い出して眠れなかった」。長女と二人、時計が五時四十六分を指すのを待ち、夫=当時(64)=の仏壇に日本酒を供えた。「おとうさん、私だけ生きてごめんな」と声が震えた。

 東灘区では、慰霊行脚の僧りょの中に遺族の姿があった。同区森南町、向栄寺の副住職(36)は小三の長男と幼稚園児の長女を亡くした。「子どもたちはたくさん楽しい思い出をくれた」。そう言って、供養の行列に加わった。

 新潟市鐙の会社員(56)は、この時間に合わせ八時間かけて同区に来た。甲南町には亡くなった長男=当時(29)=がいた。「いずれ実家に戻ってくれる予定だった。この瞬間に現地で供養してやりたかった」

 当時避難所だった芦屋市茶屋之町の西法寺には、遺族と避難していた約八十人が集まった。高校生の息子を亡くした母親が「がれきの中の遺体はまだ温かかった」と泣きじゃくった。「町がきれいになっても、一生いやされない傷がある。震災の痛みはうずき続ける」。副住職(44)が涙をこらえ、語りかけた。

(※神戸新聞の特設ページでは実名で記載されています。ここでは実名を省くなどしました)