報道関係者さえ理解していない?
また記者や報道関係者はそのことを理解して記事を書き、テレビの番組、ネットの記事を書いているだろうか。
◎【速報】「103万円」年収の壁 与党側「123万円」に引き上げ提示 国民民主党「話にならない」 金額めぐる綱引き続く | TBS NEWS DIG
「速報」だとして、この記事では「壁の引き上げ」が意味するところがはっきりしない。実際には基礎控除と給与所得控除に増額分をわけて上乗せしてその合計が123万円なのだが、記事単体では理解できないし、何が交渉されているのか、前述のような社会保険に関する知識と現在の各政党の主張を理解していると仮定しても問題の所在がどこかもわからない。
ましてや予備知識自体が危ぶまれるとすれば、この記事を読んでなにかわかることがあるだろうか。かなり無理があるように思われる。
社会問題が複雑になることに加えて、政策も抽象的で複雑になっている。導入としては有効かもしれないが、比喩だけでは理解が深まらない部分があり、そこが政策の争点や要諦ということもありえるはずだ。
最近では国民民主党の玉木氏などのように、自身のXやYouTubeを通して、高度な政策論議をかなりわかりやすく解説するようなケースが出てきている。今後もっと増えていくだろう。
その事自体は好ましいのだが、やはりそれはそれぞれの政党の立場であり、政治家の立場で、国民益という観点からの批判的な眼差しもまた必要だ。
最近では報道の必要性について「なぜ?」と問う向きもあり、政治家の直接的発信を好ましく思う人もいるだろう。だが、自由闊達な報道や批判とともに自由民主主義社会はときに困難や課題に直面しつつ発展してきたという経験的事実を消極的に指摘することはできるはずだ。
端的にいえば、最近の報道には解説不足に伴う、消化不良があるように見える。
もちろん単独の記者が複雑で高度な政策課題すべてを理解して記事として出稿することは難しい。売上不振に伴う制作費不足、人手不足、時間不足もある。これらは明らかだ。
しかし日本より先にネット中心のメディア環境に変貌した世界での出来事を想起すれば、情報の受け手となる個々人の「実践」やメディアリテラシーに期待するよりかは幾分マシなのではないか。
報道にとっては理念的な存在理由ともいえる。
その役割の負担を端から放棄するなら、日本においても既存メディアの役割や特権性がいよいよ問われる時期なのかもしれない。