(2) 「米朝枠組み合意」と第2次核危機
こうした危機的状況は、1994年6月、特使として訪朝したジミー・カーター元米大統領と金日成主席の会談によって打開されることになった。
会談で金日成主席は、核兵器保有の意思を否定しつつ、米朝協議の開催や黒鉛減速炉の軽水炉への転換等を条件に、核開発計画を凍結する用意があることを表明した。
1994年7月に金日成主席は急死したが、その後、10月に米朝の協議が開催され、米国が軽水炉の建設を支援し、完成までの代替エネルギーとして重油を提供する代わりに、北朝鮮が寧辺の黒鉛減速炉および関連施設の凍結を行い、NPT締約国に留まることなどを柱とした合意文書(「米朝枠組み合意」)の調印に至った。
これを受け、日米韓は朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)(核開発疑惑の深刻化に伴い2003年12月に中断、2006年5月に終了した)を設立して軽水炉の建設と重油の提供に向けた作業を進めた。
しかし、北朝鮮は作業の進捗状況に不満を示し、1998年8月には日本上空を飛び越える形でミサイル(「テポドン 1」)を発射した。
約束した IAEA の査察の受入れに対しても非協力的な姿勢を崩さず、核開発疑惑は未解明のままとなった。
2001年1月に大統領に就任したジョージ・W・ブッシュ(子)米大統領は、米国同時多発テロ(2001年9月)を経て対テロが最優先課題となる中で、2002年1月の一般教書演説において、北朝鮮をイラク、イランとともに「悪の枢軸」と位置づけ非難した。
これに対して、北朝鮮は「事実上の宣戦布告」であるなどとして強く反発することとなった。
2002年10月には米国の大統領特使としてジェームズ・ケリー国務次官補が訪朝し、ウラン濃縮による核開発疑惑があるとして北朝鮮を追及した。
この際、北朝鮮はウラン濃縮計画の存在を認めたとされる(その後、公には否定)。
このため、KEDOは重油提供を凍結する決定を下し、IAEAは保障措置協定の遵守を要求する決議を採択した。
これに対して、北朝鮮は核施設の凍結解除と再稼働を宣言し、IAEA査察官を国外退去させ、さらには、2003年1月に NPTからの脱退を表明し、「米朝枠組み合意」は完全に崩壊する事態となった(第2次核危機)。