1.第1次トランプ政権以前の米朝非核化交渉

 本項は、国立国会図書館「調査と情報第775号『北朝鮮の核問題をめぐる経緯と展望』(2013年3月14日)」を参考にしている。

(1) 核開発の開始と第1次核危機

 北朝鮮の核開発は、1950年代にソ連の協力を得て開始された。

 北朝鮮がいつ独自の核開発計画を開始したかは定かではないが、1980年代に入ると、平壌から約90キロ北の寧辺(ニョンビョン)で、1970年代末に自主建設を開始した実験用の黒鉛減速炉(注1)を稼働させた。

 また、プルトニウム抽出用とみられる再処理施設(北朝鮮は放射化学研究所と呼称)の建設にも着手するなど、軍事利用が疑われる核開発を本格化させていった。

 1980年代初めに、米国は北朝鮮が寧辺に独自に新たな原子炉を建設しているのを探知した。

 米国は、北朝鮮がその5MW原子炉を核兵器用プルトニウムの生産に用いるのではないかと懸念し、ソ連に対して北朝鮮にNPT加入の働きかけを行うよう求めた。

 これに応じたソ連が北朝鮮に圧力をかけた結果、北朝鮮は1985年にNPTに加入した。

 1990年代に入って冷戦が終結し、朝鮮半島において南北の和解が模索されるようになると、北朝鮮は、米国が在韓米軍の戦術核兵器を撤去させる計画を発表したことも背景に、1991年12月、韓国との間で核兵器の実験、製造、保有等の禁止やウラン濃縮施設と再処理施設の不保持などを謳った「朝鮮半島の非核化に関する共同宣言」を採択した(1992年2月に発効)。

 続いて、1992年1月、北朝鮮は国際原子力機関(IAEA)との保障措置協定の調印に応じた。

 こうしてIAEA の査察が実施されたが、その結果、核廃棄物貯蔵施設と思われる2つの未申告施設の存在も明らかになった。

 このため、IAEA は未申告施設に対する「特別査察」の受入れを要求したが、北朝鮮はこれを拒否し、1993年3月にはNPTから脱退する意思を表明するに至った。

 事態が深刻化する中、米国は北朝鮮が求める2国間協議に応じ、北朝鮮はNPTからの脱退の中断を発表した。

 しかし、北朝鮮は1994年5月、IAEA 査察官の立会いなしに寧辺の黒鉛減速炉から核燃料棒を抜き取る作業を開始した。

 これを受け、国連安全保障理事会(以下、「安保理」という)では北朝鮮に対する制裁が検討され、米国内でも核施設への限定攻撃といった選択肢が議論される事態となった。

 そこで米国は北朝鮮に対する軍事行動についてシミュレーションを行い、その結果に基づいて、ウィリアム・J・ペリー米国防長官はビル・クリントン米大統領に、「朝鮮半島で戦争が勃発すれば、最初の90日間で米軍兵士の死傷者は5万2000人に上る」という見通しを報告した。

(『二つのコリア 国際政治の中の朝鮮半島』ドン・オーバードーファー著、菱木一美訳)

 これは米政府として許容範囲をはるかに超える損害であり、結局、核の先制攻撃を含め軍事力を行使する決定は行われなかった(第1次核危機1993~94)。

(注1)原子炉には、用いる減速材の違いにより、軽水炉、重水炉、黒鉛減速炉などの種類がある。このうち、黒鉛減速炉と重水炉は、軽水炉に比べ、核兵器の原料であるプルトニウムの生産に適しているとされる。