勝海舟の失脚と操練所の閉所

 開所からわずか5カ月後の元治元年(1864)10月22日、勝に対して江戸への召喚命令が出された。11月2日に江戸に着くと、10日には軍艦奉行を罷免され、勝塾は即刻閉鎖を申し渡されたのだ。当然のことながら、操練所も一気に廃れてしまい、正式には翌慶応元年(1865)3月18日に閉所となった。

 勝失脚(=海軍操練所の閉所)となったのは、新選組が尊王志士を襲撃した「池田屋事件」(元治元年6月5日)および復権を求めて率兵上京した長州藩を撃退した「禁門の変」(同7月19日)に、勝塾生が関与をしていたためである。例えば、土佐藩浪士の望月亀弥太は池田屋事件に遭遇して犠牲になっている。

池田屋騒動之址 写真/フォトライブラリー

 勝の弟子たちがこうした反幕府的な事件に関与したことで、勝の幕臣にあるまじき人間関係が問題視された。そのため、勝の召還、そして罷免に発展したのは当然の帰結であろう。龍馬らは、最大の庇護者である勝を失い、あらたな居場所を求めざるを得なくなった。その彼らを丸抱えしたのが、薩摩藩であり、龍馬が薩摩藩士として活躍する背景となったのだ。