神戸海軍操練所の設置と塾頭問題

 勝塾はスタートしたが、幕府による官営の海軍士官の養成学校の設置は遅れていた。元治元年(1864)5月14日、その開設を前提に、軍艦奉行並であった勝が軍艦奉行に任じられ、作事奉行(建築行政の最高職)格に昇任した。

 そして、大坂船手(大坂湾の警備、廻船の監査をする幕府の役職)が廃止され、所属の船舶人員を養成学校に付属させる命令が発せられた。ようやく、神戸海軍操練所がスタートすることになったのだ。5月29日には、関西在住の旗本・御家人の子弟および中国・四国・九州諸藩の諸家家来について、操練所への入所、修業を許すとの沙汰が幕府より下された。

 この資格では、脱藩浪士の身である坂本龍馬ら土佐藩出身者たちは操練所に入れず、近藤長次郎は「勝阿波(安房)守家来」として入所している。正規の学生ではなく、聴講生と言った感じであろう。つまり、龍馬は正規の役職に就けなかっただけではなく、練習生として操練所に入ることすら不可能だったのだ。

坂本龍馬

 一般的には、龍馬が操練所の塾頭であったとする言説が、通説としてまかり通っている。しかし、この通り、その言説は成立せず、勝塾の塾頭と混同された可能性が高い。龍馬なら、「さもありなん」と考えられ、今に至ったと考えるのが妥当であろう。龍馬伝説の1つであり、すべてを鵜呑みにすることは出来ないのだ。

 ところで、神戸海軍操練所については、1次史料がほとんどなく、すこぶる謎が多い。そもそも、一体だれが入所したのか、それすら曖昧なのだ。その最大の原因は、神戸海軍操練所が極めて短い期間しか存在しなかったことであろう。今後の研究が待たれるところである。