文久3年(1863)4月27日、勝海舟はその日記に、「摂州神戸村最寄りへ、相対を以て地所借受け家作いたし、海軍教授致し候儀、勝手次第致さるべく候事」(「海舟日記」)と記述た。つまり、幕閣から神戸あたりで勝自身が直接交渉して、地所を借りて家屋を建て、そこで海軍塾を開くことは問題ないとの言質を得たのだ。 勝は、確かに神戸において念願の私塾を開設する許可を得た。しかし、幕府からの金銭的な援助がなかったため、盟友とも言える越前藩の松平春嶽に献金を依頼することにした。そこで勝は、越前藩の要人である村田氏寿を通じて、私塾開設の経費の援助を春嶽に依頼するため、弟子の中から坂本龍馬を選抜し、福井に派遣した。