20歳の若さで死去した敦康親王と彰子の無念

 そんな望月の夜から2カ月後の寛仁2年12月17日(1019年1月25日)、敦康(あつやす)親王が病により若くして他界する。

 藤原実資(さねすけ)の日記『小右記』によると、道長は「式部卿敦康親王、未時、薨ず(こうず)」と述べたという。「未時」(未剋:ひつじのこく)とあるので、午後1時~午後3時ごろに亡くなったということになる。20歳で生涯を閉じた。

 今回の放送では、そんな敦康親王の死が描かれることになったが、第40回「君を置きて」での彰子のセリフを思い出した視聴者もいたかもしれない。一条天皇が譲位を決めて、東宮には敦成(あつひら)親王が据えられることが決まり、道長が彰子に報告に行くと、こう激怒されてしまう。

「信じられぬ。帝は敦康さまを次の東宮にと私にも仰せであった! お心が変わるはずがない」

 彰子は敦康の養母であり、幼少期から時間を共にしていた。敦成親王が我が子であるとはいえ、彰子は一条天皇の希望を尊重し、第1皇子の敦康親王を東宮にすべきだと考えていたのである。

 道長が「お怒りのわけがわかりません。敦成さまは、中宮様の第1の皇子であられますぞ」と戸惑うと、彰子はこんなことを言っている。

「まだ4歳の敦成をいま東宮にせずとも、敦成にはその先が必ずあります。それに、私は敦成の母でもありますが、敦康さまの母でもあるのです。敦康をご元服の日までお育て申し上げたのは私です。2人の皇子の母である私になんの相談もなく、次なる東宮を敦成とお決めになることは、とんでもなきこと! 父上はどこまで私を軽んじておいでなのですか!」

 その敦康が20歳の若さで死去したことを思うと、結果論ではあるが、彰子の言う通り、まず敦康親王を皇太子にしたとしても、敦成親王の出番はあった可能性が高い。今回の放送では、彰子が悲しみに暮れる様子が痛ましかったが、「こんなことなら、いったん即位してもらってもよかったのでは……」と無念な思いがしたのは、彰子だけではないだろう。

 ドラマでは、ナレーションが敦康親王の人生について「道長によって奪い尽くされた生涯であった」と辛辣に説明したのは、インパクトが大きかった。徐々に道長に反発する空気も醸成されていったのではないだろうか。