約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?
関羽死後の第2世代の戦い、孫権、諸葛亮、曹丕…
前回の記事で第2世代のリーダーとしての孫権が、魏で220年に皇帝になった第2世代リーダーである曹丕に圧勝したことを解説しました。曹丕は魏国内の権力争いには勝ちましたが、自国の外で強敵と戦い、相手を打ち負かすようなリーダーとしての鍛錬が不足していたのです。
曹丕が皇帝になったことで、後漢は正式に滅亡します。曹丕は226年に病死しますが、この6年間のあいだに、曹丕の父である曹操時代に活躍した猛将、謀臣の多くは世を去ります。
呉に捕虜になっていた于禁は221年に捕虜返還で帰国して死去、猛将の張遼は222年に病気ながら出征して戦場で病死、父曹操とともに戦い続けた名将曹仁も223年に病死。謀略家、軍師として有名な賈詡も223年に天寿を全うして世を去ります。
曹丕の死が226年ですから、父の遺産として残っていた有名武将、ブレーンたちの多くが曹丕の死の前に世を去ったことになります。その意味で、曹丕が呉へ侵略戦争を繰り返した時期、父曹操が育てた戦力は、高齢化の波にさらされていたと言えます。
他にも曹操とともに戦い続けた歴戦の武将である徐晃は227年、曹休は228年に亡くなっており、彼らは曹丕の時代にはほぼ引退直前の年齢だったことがわかります。その意味で、曹丕がもし自身の右腕となる若手を育てていなければ、若い第2世代ともいえる逸材は魏内では(ほとんど)いなかった可能性があります。
曹操は後継者を最後まで吟味していたことで、曹丕は青年期に自らの子飼いの若手を育てることができなかった可能性もあります。曹丕自身も周囲を父のブレーンに固められていたため、同世代や若手を自ら育てる必要性を実感しなかったとも推測できるでしょう。
夷陵の戦いの大敗で、優れた人材を多数失った蜀と諸葛亮
三国の一つ蜀では、皇帝となった劉備が最後の戦い(夷陵の戦い)で関羽の仇打ちを狙い、呉に大軍で侵攻したものの大敗北を喫しました。この戦いで劉備に付き従ってきた優秀な武将たちの多くが命を落とし、多数の人材を失った状態で劉備は全権を諸葛亮に託して223年に世を去ります。
諸葛亮は劉備が赤壁の戦いに勝利する前から共に行動をしていた軍師、政治家であり、劉備に天下三分の計を授けた人物でもあります。そのため、あらゆるものを先代に準備してもらった2代目ではなく、むしろ合流して一緒に蜀を築いた立場でした。そのため、自ら意思決定を行うという2代目リーダーの資質は十分に持っています。
ただし夷陵の戦いでの損失を埋めるため、第2世代の人材を育成することは急務だったはずです。劉備死後は国力の回復につとめ、南方遠征のほかは、呉との国交回復などを優先的に行っています。この時期、曹丕が対呉の侵略に夢中だったことも、蜀には好都合でした。
劉備の死(223年)から、諸葛亮自身の死(234年)までの時期、蜀の防衛を支えたのは、王平(248年死去)、馬忠(249年死去)、鄧芝(251年死去)などの武将でした。劉備時代からの有名武将では趙雲が残っていましたが、229年に死去していることから、ほぼ引退寸前の状態だったでしょう。