(町田 明広:歴史学者)
明石博高が学んだ諸学問
嘉永5年(1862)になると、明石博高は様々な学問に打ち込み始めた。儒者桂文郁から古典医学、祖父善方から西洋医術・製薬術、宮本阮甫および武市文造からオランダ語を学んだ。さらに、幕府医官の柏原学介(適塾塾頭、後の徳川慶喜侍医)から物理学、錦小路頼徳から解体術、津藩医師の新宮凉閣に解剖・生理・病理・薬物・臨床医学も学んでいる。
それに留まらず、明石は津藩医師の新宮凉民から医術、田中探山から本草学、辻礼甫から化学・製薬術・測量術を学修している。それにしても、驚異的な学修意欲であり、しかも、それらを自分のものにしていく明石の天賦の才には、驚嘆せざるを得ない。明石が明治以降、京都近代化の要となった産業や医療、理化学革新の中心的役割を果たした事実には、合点がいこう。
明石と七卿落ちの錦小路頼徳
ここで、明石が解体術を学んだ錦小路頼徳(1835~1864)について、紹介しておこう。錦小路は幕末の公家であり、天保6年(1835)4月24日に生を受けた。父は唐橋在久で、錦小路頼易の養子となった。安政5年(1858)、廷臣八十八卿列参事件に参加し、通商条約の調印に反対するなど即時攘夷派に属し、幕府が結んだ通商条約を破棄し、攘夷を実行する破約攘夷運動にまい進したのだ。
文久3年(1863)2月、即時攘夷派の中心メンバーになっていた錦小路は、攘夷貫徹を求める建言を提出して耳目を集め、破約攘夷を実現する推進力として新設された国事寄人に任じられ。そして、議奏三条実美や長州藩士の久坂玄瑞らと共謀して、孝明天皇の攘夷親征を企てるに至った。
しかし、8月18日政変によって、三条実美ら6人と京都を脱出して長州へ逃れた。世に言う、七卿落ちである。長州藩での錦小路は直ぐに病に悩まされ、元治元年(1864)4月2日、滞在先の下関で病死した。30歳の若さであった。
明治まで生き残れば、相当な地位に就いたはずの錦小路から、明石は解体術を学んだが、慶応2年(1866)になると、錦小路頼言(頼徳養子)に入門し、医道免許を受領している。