嘉永5年(1862)になると、明石博高は様々な学問に打ち込み始めた。儒者桂文郁から古典医学、祖父善方から西洋医術・製薬術、宮本阮甫および武市文造からオランダ語を学んだ。さらに、幕府医官の柏原学介(適塾塾頭、後の徳川慶喜侍医)から物理学、錦小路頼徳から解体術、津藩医師の新宮凉閣に解剖・生理・病理・薬物・臨床医学も学んでいる。 それに留まらず、明石は津藩医師の新宮凉民から医術、田中探山から本草学、辻礼甫から化学・製薬術・測量術を学修している。それにしても、驚異的な学修意欲であり、しかも、それらを自分のものにしていく明石の天賦の才には、驚嘆せざるを得ない。明石が明治以降、京都近代化の要となった産業や