「戦争に翻弄された人生だった」「くやしい」——2007年

 一時帰国で戸籍も回復した吉雄氏は、永住帰国の意思を固めていた。日本から持ち帰ってきた雑誌を毎晩ベッドで眺めている姿を孫娘のアイーダはよく覚えている。庭のリンゴの木の下の椅子に座り、そこでも日本の雑誌を飽くことなくめくり続けていた。カザフに赴任した邦人ビジネスマンたちも吉雄氏を支援するのを惜しまなかった。

 新独立国であるカザフスタンが有する国内事情もあって、出国手続きは煩雑を極めたが、官民の連携が功を奏し1994年7月、吉雄氏は日本に永住帰国を果たす。エカテリーナと暮らした家も天山山脈も、もう見ることは二度とない。

 きょうだいが用意してくれたのは、松戸市内の四畳半に小さな台所がついたアパートだった。訪れた寺尾氏に「日本に帰って皆と会えてよかった」「カザフには他にも日本人はいるんだよ」と、言葉少なに語った。日本語力はずいぶん回復していて、楽しみは新聞を読むことだとも言った。それでも心を占めるのはカザフに置いてきた娘一家のことで、ぎりぎりの生活のなかからできるだけの送金を続けていた。

 一人暮らしを頑張っていたのだが、2006年頃から衰えが顕著になり、入退院をくり返すようになる。きょうだいがお金を集めて娘と孫をカザフから呼び寄せ、最後の語らいの場を提供した。やがてアパートを引き払い、妹の俊子さんの家で暮らすことになる。ほとんどベッドに臥すなか、だんだん口も利かなくなり、子どものように泣きじゃくるときもあった。

「国のため、戦争のため、樺太から長崎に行かされ、シベリアに抑留された。戦争に翻弄された人生だった。くやしい」

 弱みをほとんど見せたことのなかった吉雄氏が、唯一腹の底から吐いた言葉である。

 2007年6月6日、起きてこないと俊子さんが様子を見に行くと、すでに息を引き取っていた。享年87。樺太で暮らしたのは最初の25年、以後約50年がシベリアおよびカザフスタンであった。

脱露 シベリア民間人抑留、凍土からの帰還』(石村博子著、KADOKAWA)