1961年3月31日死亡とみなす戦時死亡宣告
焦燥と不安を癒やしてくれたものは、目の前に広がる天山山脈だった。切り立った山並みの稜線はいつも雪におおわれ、白く輝く神々しさは樺太にも日本にもない心奪う壮絶な光景だった。
日本に帰った家族は吉雄氏を捜し、厚生省や赤十字あてに捜索要望書を何度も提出した。ソ連に遠征するスポーツ選手に手紙を託したりもしたが、行方は杳として知れない。
1965年には1961年3月31日死亡とみなす戦時死亡宣告が出され、やむなく受け入れることにする。北海道知事届けによる除籍は行われたが、葬儀は出さなかった。どこかで生きているのではと、出す気になれなかった。
吉雄氏には1953年秋に一度だけ、帰国の意思の有無を尋ねられるというチャンスが訪れていた。しかしちょうどその時期、遠方のフェルト工場に派遣されてタルガルを留守にしている最中だった。戻った時には帰国事業は終わり、寝食を共にしていた残留邦人の仲間はすでにカザフを後にして日本に向かっているという。生きていく力が身体中から抜けるほど打ちのめされた。
そうしたなかでロシア人とタタール人の混血のエカテリーナという女性と知り合い、支え合うことに安息を見出していく。彼女の両親は政治犯として行方不明で、自身もラーゲリを10年間も体験したという天涯孤独の女性だった。

1956年に長女ガーリャが誕生すると、家族を守るために再び訪れた帰国の機会を断念。それでも自分の名前の漢字だけは忘れまいと胸に秘めていた。国営の家畜牧場に勤め、しばらく穏やかな日が続いたが、75年にエカテリーナが心不全を起こして突然帰らぬ人となってしまう。1978年にガーリャが結婚すると、一人暮らしに入った。ずっと無国籍でいたのだが、年金受給のため81年にソ連国籍を取得する。
このままカザフの土になるかと思っていたところで、ソ連邦が消滅する。国も暮らしも激変するなか、吉雄氏は母親やきょうだいの夢を続けてみるようになっていった。そんななか、アルマティで日本産業見本市が行われていることを人づてに聞いたのである。