流転の運命——1946年6月〜

 その年の12月20日、小関吉雄氏は日本に一時帰国を果たした。47年ぶりの祖国の土である。黒い毛皮の帽子をかぶり、成田空港到着ロビーに姿を見せると、妹の吉良俊子さんが抱きつき頬を押し当ててきた。吉雄氏は目を赤くはらして何度もうなずき、詰めかけた報道陣に日本語とロシア語を交えて「夢のようで胸がいっぱい」と語るのが精一杯だった。

 樺太時代から遡ろう。吉雄氏は兵役の経歴はなく、南樺太西海岸北部の塔路の炭鉱夫として働いていた。樺太の良質で豊富な石炭は、日本の産業の根幹を支えるものだった。

 だが1944年に入ってからは運搬船舶の極端な不足によって、日本本土への輸送が困難となり、増産から一転して廃止、休鉱などの炭鉱整理が次々行われていった。吉雄氏のいる塔路炭鉱も「急速転換措置」が命じられ、吉雄氏たち炭鉱夫は長崎県蛎浦島の三菱崎戸炭鉱に移転させられる。

 ソ連侵攻と同時に塔路にいる家族との連絡はぷっつりと途絶え、島内に伝わってくるのは樺太の悲惨な状況ばかりである。徴用解除になった吉雄氏は、家族の安否を確かめるため、稚内から小舟に乗り込んで樺太への密航を決行する。

 失敗を重ね、46年6月、3度目にようやく樺太の陸地に上がったが、そこで待っていたのは自動小銃を構えたソ連兵だった。その場で捕まり刑務所に入れられると、厳しい取り調べが行われ、ソビエト共和国刑法によって1年間の自由剥奪の判決が下される。

 受刑者として船に乗せられウラジオストクへ。鉄道による劣悪な移送状況下、立ち上がることもできない状態になった末にマリインスクの収容所に送り込まれた。

 樺太の家族は、吉雄氏が豊原の刑務所に入れられていることを伝えられていたが、その後のことは分からないまま47年7月に北海道に引き揚げる。まさにそれと同時期、吉雄氏は釈放の身となり刑務所から出ることを許された。

 だが釈放と同時にカザフスタンのタルガルに行くようにとの指令を受ける。全くの未知のタルガルという土地に着くと、そこで毛皮靴工場やコルホーズでの労働に従事させられた。翻弄されるまま、帰る手立てはどこにもない。