船上から手を振るシベリアからの引き揚げ者(1950年、京都・舞鶴港)。祖国に帰れない人も多かった(写真:共同通信社)

敗戦後、ソ連に占領された南樺太では「民間人」が突然逮捕された。さらに、日本に帰ろうとする者、逆に家族との再会を目指し樺太に渡ってくる者が囚人となり、ラーゲリに連行された。軍人などと異なり、組織も名簿も持たない彼らは引揚げ事業の対象外とされ、数百人にのぼるシベリア民間人抑留者は「自己意思残留者」として切り捨てられた。ノンフィクションライターの石村博子氏は、新著『脱露 シベリア民間人抑留、凍土からの帰還』(KADOKAWA)で、実際にあった悲劇を丹念に掘り起こした。

(*)本稿は『脱露 シベリア民間人抑留、凍土からの帰還』(石村博子著、KADOKAWA)の一部を抜粋・再編集したものです。

【前編】「私は日本人だ」カザフスタンの荒野に47年、それでも名前の漢字だけは忘れなかった
【中編】軍人が乗る帰還列車をただ見つめるだけ—引揚事業の対象から外された「民間人抑留者」たち
【後編】「この戦争は負けるよ」両親たちを連れ帰ろうと樺太に密航、教師だった姉の消息は途絶えた

子どもたちに慕われ、おしゃれだった姉

 村上一子さんは1917年生まれ。一家は両親と6人のきょうだいで一子さんは長女である。4人の妹とひとりの弟がいて、幸子さん(仮名)は3番目の妹になる。幸子さんは1930年生まれで、一子さんとは13歳違いになる。

 一家が樺太に渡ったのは1935年頃。父親は西柵丹炭鉱の炭鉱夫として働いた。進取の気概に富んだ両親のもと、子どもたちは自由に伸び伸びと成長した。父親は多趣味な男性で、夜はレコードをかけて都都逸などを上手に歌い、スキーがはやると子どもたちにスキー板を買い与えて、自分でも颯爽と滑っていた。

 母親はとても器用で、子どもたちの服はみんな自分で作り、自分自身も身ぎれいにすることを好んでいた。子どもたちを上の学校に進めるために、父親は俸給の良い、坑内のきつい仕事を進んで請け負っていたことを後で知る。

 一子さんは小さいころから勉強がよくできて、習字はいつも賞をとる早熟で利発な少女だった。小学校を卒業すると、北海道・小樽高等女学校に進学。卒業後は樺太に戻って樺太庁師範学校の研修を1年間受けたのち、念願の小学校教師に採用される。

 奉職先は「樺太公立諸津第二尋常小学校」。諸津は西柵丹と塔路の中間あたりに位置する無煙炭鉱のある町だ。学校は小さく、教師は全部で4〜5人しかいなかった。

尋常小学校の先生だった村上一子さん(ご遺族提供) 

 当時小学校4年生だった幸子さんは、一子さんに呼び寄せられて、諸津で一緒に暮らすことになる。教師用という一子さんの住まいは、ずいぶん広いつくりの一軒家だった。諸津は魚がとても豊富で、イカもシシャモも捕り放題。捕りたてのカニもたくさん売っていた。

「そこで楽しい日々を過ごしました」

 一子さんは、悪いことを叱るときは怖いが、普段はとてもやさしい先生と子どもたちに慕われていた。写真に残る一子さんの姿は、丸い眼鏡をかけた“きちんとした女性”という印象である。

 母親同様いつも身ぎれいにして、着るものにはこだわりをもっていた。人に頼んで作ってもらったり、自分で作ったり、おしゃれにはぜいたくをしていたと幸子さんは思い返す。