男性は「小関吉雄」と、力を振り絞るように漢字で書いた
「私は樺太で炭鉱夫をしていた。でも終戦時は九州の炭鉱に移されていた。戦後樺太に残った家族を捜すため、稚内から樺太に渡ろうとしたが、上陸直後にソ連兵に捕まって、シベリアのラーゲリに連れていかれた。そしてここまで来た。現地の女性と結婚し、子どももいるが一度は日本に帰りたい。日本の家族に会いたい。でも家族がどこにいるか、無事なのかもわからない。捜してもらえないだろうか」
メモ用紙を渡すと男性は「小関吉雄」と、力を振り絞るように漢字で書いた。日本語はほとんど忘れてしまっているのに、名前の漢字だけは覚えていることに、寺尾氏は強烈な印象を受ける。本籍を訊くと「北海道白糠」と答えた。年齢は73歳であるという。
必ず家族を捜し出すと約束した寺尾氏は、帰国後すぐに役所に問い合わせ、きょうだいの多くが松戸市に住んでいることを聞き出した。個人情報保護法のない時代、役所もとても協力的で躊躇なく教えてくれたのだ。寺尾氏は松戸のきょうだいのひとりに、カザフスタンで吉雄氏に会ってきたとの電話を入れた。
生きていたのか! 本当に吉雄なのか!? すでに吉雄氏は除籍され、存在しない人間になっている。実は寺尾氏は吉雄氏と別れる折、ツーショットの写真を撮ったのだが、目を離したすきにカメラは盗まれてしまっていた。現地で会ったという人物が吉雄氏と証明できるものは何もない。ならばときょうだいでお金を出し合い、弟の進氏がカザフへと飛んだ。
アルマティから東に約30キロのタルガルという小さな町。その町の郊外の木々に囲まれた小さな家に小関氏は一人で住んでいた。妻はすでに亡く、娘夫婦や孫たちは近くに住んで、頻繁に行き来しているという。吉雄氏の外見は樺太時代とはまるで違い、牧畜か農作業で風雨にさらされた人のものだった。
進氏と向かいあうと、昔の記憶が吉雄氏に鮮明によみがえってきた。家は塔路で豆腐屋を営んでいたこと。塔路の炭鉱で運搬機械係として働いていたこと、3つある部屋の一部屋一部屋には石炭ストーブが据え付けられていたこと……。
「間違いない、吉雄兄だ!」
大使館員たちも息をのんで立ち会うなか、進氏は声を上げる。樺太の炭鉱夫だった兄が、なぜこんな遠い地で年老いるまで生きることになったのか。
吉雄氏発見の前後から、カザフスタン及びロシア・シベリアで戦後を生きぬいてきた日本人が次々と出現することになる。