(文星芸術大学非常勤講師:石川 展光)
『ベルばら』の乙女の美学と『イノサン』のSMの美学
「あなたは薔薇のさだめに生まれましたか?」と聞かれて「はい、私は薔薇のさだめに生きています」と答えられる人がどれほどいるだろうか。いるとすれば、芸能界か夜の世界に住まう人々くらいのものであろう。
そうでもない私たち民草は、やはりどうあがいても、ただただ風にそよいでいればいいだけであるし、そのほうがよっぽど気楽なのである。
今回紹介するのは、そんな気高き薔薇のさだめに生まれた人々の物語である。池田理代子原作の少女漫画の金字塔として名高い、様式美の極致『ベルサイユのばら』(以下『ベルばら』)が2025年1月31日に劇場公開となる。半世紀前の伝説的名作アニメのリメイクである。アニメ製作は『どろろ』『進撃の巨人(The Final Season)』などを手がけたMAPPA。声優陣は、オスカルに沢城みゆき、マリー・アントワネットに平野綾という興味深いカップリングだ。
男装の麗人、貴族たちの華やかな恋愛模様、そして革命……。全てのキャラクターが華麗によろめきまくる、あの『ベルばら』である。その世界観は今も多くの乙女たちを魅了し続けているようだ。
ここまで語っておいて何ではあるが、私は正直、つい最近まで『ベルばら』には興味が持てなかったことをここに告白しておく。今は違う。坂本眞一の『イノサン』を読んでしまったからだ。
舞台は『ベルばら』と全く同じ、フランス革命前夜のパリ。設定もほぼ同じであるが、その様式美は全く違う。漫画史上最凶とも言える残酷物語なのだ。
簡単に言えば、『ベルばら』は乙女の美学である。革命なので人がいっぱい死ぬが、そのどれもが痛さを感じさせない描写である。『イノサン』は真逆である。むしろ、痛みの美学である。嗜虐と被虐の美学。簡単に言えばSMなのである。それが本家を遥かに上回る様式美で描かれているのである。
フランス革命を描いている以上、両作品とも登場人物がほぼ全員死ぬという運命には逆らえない。ゆえに「滅びの美学」というテーマは不可避になる。しかし『ベルばら』は、気高く咲いて美しく散る薔薇が描かれているが、『イノサン』は、それが雑草であろうが薔薇であろうが、散らすのである。「散る側」と「散らす側」。それがこの両作品のアングルの違いである。
なんといっても『イノサン』はとにかく絵が圧倒的で全コマが絵画である。そして面白いことに、書き文字(ゴゴゴとかドーンなど)が使われていない。そんなものを入れる余地はないと言わんばかりに、卓越した画力で表現している。こんな漫画は見たことがない!
それなのにキャラクターは一様に顔が似ているのである。当然見分けられない程ではないが似ているのだ。もちろん本家『ベルばら』も同様だ。終盤のアンドレとアランの取っ組み合いを見ると、もみあげだけでアランを識別していることを自覚するはずだ。
卓越した画力がありながらも、なぜ作者たちはキャラクター分けを顔に頼らないのか。それはつまり、それが様式美の本質だからなのである。ある要素が極端に強調される一方、その他の要素はすこーし違うだけでいいのである。
この感覚はヘヴィメタル、宝塚歌劇、バレエ、演歌などに共通している。そのジャンルに関心のない人たちにとっては、「全部同じに見えるんだけど」と思わせる。そういう意味で言えば、『ベルばら』は歌劇、『イノサン』はデスメタルに喩えられよう。内容はほとんど同じなのに、視点によってかくも真逆の様式美が成り立つものかと感心せずにはいられない。