『権記』に記された、道長が息子・顕信の出世を拒んだ経緯

 また、三条天皇からの関白就任の要請を固辞した道長は、自身だけではなく、息子の出世まで固辞している。

 三条天皇は娍子の異母弟である通任(みちとう)を蔵人頭に抜擢したかと思えば、今度は参議にまで上がらせて、代わりに蔵人頭に道長の三男にあたる顕信(あきのぶ)を上らせようとした。

 ドラマでは、道長は通任の参議就任について「通任は半年前に蔵人頭になったばかりでございます。たった半年で参議にするのはいかがなものでございましょうか」と苦言を呈するも、三条天皇は「娍子の弟ゆえに取り立ててやりたいのだ。左大臣も息子たちを取り立てておるではないか」と押し切っている。

 そうなると、蔵人頭のポストが空くことになるので、三条天皇は「そなたと明子との顕信を蔵人頭にしてやろう」と提案。だが、道長は「顕信に蔵人頭は早いと存じます」と断る様子が放送された。

 このことで顕信は「私は父上に道を阻まれたんですね。私はいなくてもよい息子なのでございますね!」と絶望。道長にとって2番目の妻となる明子からも「私は決して許しませぬ!」と責め立てられてしまった。

 道長が顕信の出世を拒んだ経緯については、行成が『権記』に書き記している。行成は道長にこう言われたのだという。

「不覚の者の替わりに、不足の職の者を補される。きっと非難されるだろう」

 つまり、「心構えがしっかりしていない通任がついていた蔵人頭に、未熟な顕信をあてがっても、非難されてしまうだろう」といった意味となる。

 史実において、道長によって出世の道を断たれた顕信は、19歳にして出家に踏み切ることになる。明子との夫婦関係は完全に崩壊したといってよいだろう。

 今回の放送では、三条天皇が人事に介入することで、それを受け入れても拒んでも、道長の求心力が低下していく様が描写された。