道長が三条天皇の「一帝二后」案に引き下がったワケ
ドラマでは、三条天皇が道長の関白就任を諦める代わりに、道長に「朕の願いをひとつ聞け」として「娍子(すけこ)を女御とする」と言い出した。ここは少し背景の説明が必要だろう。
道長は彰子との間に生まれた敦成親王を第2皇子にもかかわらず、皇太子にすることに成功したが、自身の地位を盤石にするべく他にも手を打っていた。嫡妻の倫子との間に生まれた次女の妍子(きよこ)を、三条天皇が即位する前年の寛弘7(1010)年、まだ皇太子だった居貞親王(いやさだしんのう)に嫁がせていたのである。
ところが、三条天皇には藤原娍子という長く連れ添った妻がおり、第1皇子となる敦明親王をはじめ6人の子をもうけていた。そこで三条天皇は長和元(1011)年2月14日に道長の娘である妍子を立后させながらも、3月に入ると娍子も皇后に立てようと言い出したのである。
ドラマでは提案を受けた道長が「娍子様は亡き大納言様の娘にすぎず、無位で後ろ盾もないゆえ女御と成すことはできませんぬ」と抵抗するが、「関白のことは分かったゆえ、娍子のことは断るでない」と押し切られてしまう。
道長が引き下がったことを不思議に思った視聴者もいるかもしれない。だが、道長自身が、かつて一条天皇のときに、中宮の定子がいるにもかかわらず、長女の彰子を入内させた上に強引に中宮にしている。そんな経緯を踏まえると、三条天皇の「一帝二后」を否定することは難しかったのだろう。