自身の大病と父の脳梗塞

 3年前の2021年。46歳になる年のことだった。文彦は続けざまに災難に見舞われる。

 3月、病院で「潰瘍性大腸炎」という診断を受ける。少し前からお腹の調子が悪く病院に通っていたのだが、思っていた以上の大病だった。

 医者からは「完治することはない病気なので、気楽に向き合って、のんびりやっていきましょう」と言われた。いろんな薬を試して、合っていれば効果が出るし、合わなければお腹が痛くなったり、一進一退という状況が続いていた。

 6月、高校の体育祭でアキレス腱断裂の大ケガを負う。コロナ禍で学校行事の中止が相次ぐ中、ようやく行われた生徒全員が参加するイベント。盛り上げたい気持ちから、ケガをした後も痛みを押して走り回っていた。

 その日の朝、山梨の実家で暮らしていた勇が突然、脳梗塞を発症し倒れた。健康だったとはいえ、すでに80歳を過ぎている。体育祭の最中に兄から電話で知らせが入り、「すぐに来てほしい」と状況の深刻さを伝えてきた。だが、搬送係を任されていたため、ケガをした生徒を病院に送り届けなくてはならない。それが終わって、今度は自分のケガで病院に。結局、山梨に帰ることはできなかった。

 一命を取り留めた勇は、その後、麻痺の症状も少なく、回復に向けリハビリにも積極的に取り組んでいた。以前、顔を合わせた時に潰瘍性大腸炎のことを話すと、「息子にこんな大病をさせてしまって」と、自分に責任があるかのように落ち込んでいた。だから倒れた後も、「心配を掛けたくない。俺が頑張らなくては」という強い思いがあった。

 文彦はアキレス腱の手術を終えるとすぐに仕事に復帰。3週間ほどして、対外試合が自粛される中で、選手たちになんとか試合をさせてあげたいと静岡大学にお願いし、オープン戦を組んでもらった。

 すると、5回までに9点を取る猛攻。嬉しくて、またはしゃいで、ベンチで飛び跳ねてしまった。試合後、「なんかちょっと痛いな」と思って診察に行くと、縫合した傷口が開いてしまい、出血していた。

 大会の開幕を目前に控えた7月6日に再手術。そのまま入院する。コロナ期間中で病院もピリピリしていたが、主治医が「監督、試合に行きたいんでしょう」と言って特別に外泊許可を出してくれ、松葉杖をついて試合の指揮を執った。

 もちろん前後に厳重にPCR検査をし、試合後は病院にトンボ返りした。大事な公式戦に穴を空けずに済んだ。

 10月、近隣の富士市立高校のグラウンドでのオープン戦。学校行事と日程が重なった関係で、スタッフが足りず、一人で部員を引率して出掛けて行った。