われわれは種を次代に残すためにどういうことを考えなければいけないのか。私たちにとっての本当の幸せとは何なのか。人生をどう創っていくべきで、その中で子どもを持つとはどういうことなのか。そういった生き様全体を考える大きなきっかけを与えてもらっていると捉えることもできると思うのです。

 日本以外の先進国でも同様ですが、経済が発展してきた国ではおしなべて、みんな子ども産まなくなっています。要するに少子化は、人類全体にとって、近代化・現代化の宿痾(しゅくあ)なのです。近代化、現代化が進むと、人間は個人主義的になって、客観主義的になって、合理主義的になっていきます。

子どもを産み育てることをデメリットと考えるようになった現代人

 特に日本では、従来は農村という地域的な共同体や、同じ信仰を持つ宗教的共同体、親戚一族といった血縁的共同体の中で生きてきました。そこは、多くのしがらみがあり、非合理で、個人の権利よりも共同体の和を重視する世界です。ともすれば個人が共同体の中で抑圧される世界でもあります。

 しかし社会の近代化、現代化が進む中で、私たちは共同体を離れ、集団よりも個人の権利を重視するようになりました。それに伴い、従来の共同体的価値観からより一般的な意味での客観的価値観に強くとらわれるようになりました。

 ここでいう客観的とは、たとえば周りから見てあの人出世しているね、偉いね、と評価されることです。共同体の中では、一般的には、自らの家業を継ぐなどして、それが農業だったり商業だったりするわけですが、その維持発展をはかって配偶者と一緒になり、跡継ぎを残す。いわば、自然の摂理として子どもを残してきました。

 その共同体から切り離された個々人は、自由を得ますが、同時に孤独になり、不安になります。その空白(孤独や不安)を埋めるためにも、自分にその生き方が合っているかどうかよりも、周りから見て「いい学校」や「いい会社」とよばれる組織に属することを重視し、偏差値の高さや収入の高さで自分や他人を理解するようになってきたのです。広域レベル・全国レベルでの自己の客観理解です。そこにおいてもっぱら大事なのは、地位や収入などであり、残念ながら、子どもの数や当該子どもたちをしっかり育てているかとか、社会にどれだけ貢献しているかなどは、数値化しづらいところもあり、理解の対象外になってきてしまっています。

 少子化の流れも、この文脈上にあると言えます。客観的に見て、いい職場で、高い地位につき、よりよいキャリアを築いていくことを優先して考えると、子どもを産む、育てることをデメリットととらえる傾向が強くなります。自分の時間やおカネを犠牲にして子どもを産み育てるより、その分を自分のために使った方が合理的だし、自分のキャリアアップにも直結する。そもそも、時間やおカネをかけて育てた子どもがそのうち反抗したりするリスクを考えるなら(かなりの家庭でそういうことが起こる)、最初から産まない方がいいじゃない――という思考になってしまうのです。

 しかしそれで私たちは本当に幸せになったと言えるのでしょうか?

 かつて親が子どもを産み育てる行為には、「いずれはこの子が自分の面倒を見てくれる」という打算的な面もあったのも事実です。一種の自己防衛、個人的な社会保障対策です。現代は国家による社会保障が充実しているので、親の生活保障のために子どもを産むという発想はかなり薄らいでいます。

 ただ、その打算を差し引いても、わたしたちの人生、わたしたちの幸せは薄っぺらい客観性や合理性だけで測ったりして、成り立たせるべきものなのでしょうか。共同体を離れ、個人個人の、いわゆる「いい暮らし」を最優先することが、わたしたちの幸せになるのでしょうか。現代の止まらない少子化の流れは、そのことをわたしたちの鋭く突き付ける問いなのだと思うのです。