(歴史ライター:西股 総生)
脇坂家3代安政築城の質素な城
司馬遼太郎の歴史小説に『貂(てん)の皮』という作品がある。脇坂家が大名に成り上がる物語で、短編ながらなかなかの佳品だ(新潮文庫『馬上少年過ぐ』所収)。
脇坂家初代の安治は、豊臣秀吉子飼いの武将で「賤ヶ岳七本槍」に数えられたものの、その後は武功もパッとしない。関ヶ原では小早川秀秋の寝返りに乗じて東軍に与し、5万石の近世大名となったものの、そののち封地は転々とし、3代安政の1662年(寛文12)、ようやく5万3千石で播磨龍野に落ち着いた。お隣の赤穂に、やはり5万石余で浅野家が封じられてから24年後のことである。
龍野には鶏籠山(けいろうさん)城といって、織田・豊臣時代に築かれた石垣造りの堅固な山城があった。脇坂家入部の頃には廃墟となって久しかったが、安政は廃墟の鶏籠山城には手を付けなかった。時すでに泰平の世、一介の外様大名が堅固な山城を再興するなどという、幕府にわざわざ目をつけられるような築城は剣呑すぎるのだ。もっと現実的にいうなら、財政上も無理であったろう。
かわりに山麓の屋敷跡を改修して、どうにか城らしい体裁を整えることとした。おかげで龍野城は、近世の大名居城としてはひどく質素である。2〜3万石クラスの小大名が住まう陣屋と、ほとんど変わるところがない。
現在、龍野城には櫓門と小さな隅櫓、本丸御殿の一部が建っているけれども、史実に基づく復元ではない。城らしい景観を整えるための「復興」だ。それでも、正面の虎口が立派な枡形をとどめているあたり、城としての体裁を整えようとした脇坂家の意地のようなものが感じられて、キュンとくる。
このほかに、城らしい見所はほとんどない。健脚で山城好きの方は、鶏籠山へどうぞ。なかなか険しい山城だが、登れば累々と残る豊臣時代の石垣を堪能できる。
というわけで、近世城郭としての龍野城は、名城どころか凡城以下と評せざるをえない。でも、である。凡城にも満たない城をもって、脇坂家は江戸時代をまっとうできたのだ。
対してお隣の浅野家は、はるかに立派な赤穂城を擁しながら1701年(元禄14)、つまり脇坂家の龍野入封から40年後には、改易の憂き目に遭ってしまった。しかも、赤穂城の受け取りに当たったのは、他ならぬ脇坂家なのである。
城の使命が、主と家の命脈を守ることにあるのだとしたら、使命を果たしたのは赤穂城より龍野城の方、ということになる。こう考えてくると、地味で凡庸な姿であるだけ、龍野城はかえって愛おしく思えてくるではないか。
龍野の街は、山あいに開けた小さな盆地だ。近代都市として大きく発展できる素地が乏しかった分、城下町らしい雰囲気をすてきに残している。ちゃっちゃと城だけ見て去るには、あまりにもったいない。観光地としてもマイナーだから、一人静かに歴史と向き合って、かみしめるような散策には、うってつけなのである。
龍野はまた、司馬遼太郎も『貂の皮』に書いているように、醤油とそうめんの街でもある。ちなみに筆者の印象に残ったのは、道すがらふと見かけて立ち寄ったラーメン屋が、なかなか美味しかったこと。
そりゃあ、そうだ。醤油とそうめんの街だもの。