ポーランドを共産化できなかったトラウマ

 焦ったレーニンは共産主義革命を促すべく、ポーランドに介入し、ソビエト=ポーランド戦争を引き起こします。ボリシェヴィキ赤軍は一時期、ワルシャワを包囲するなど勢いを示しましたが、最終的にポーランド軍に敗退してしまいます。

 この時、ボリシェヴィキ赤軍はポーランドから撤退したものの、ウクライナやベラルーシに侵攻・占拠することに成功します。ウクライナやベラルーシの領土の一部をポーランドに取られるなどしましたが、赤軍が辛うじてウクライナやベラルーシを、ロシア側につなぎとめました。

 ロシアにとって、ポーランドが共産化されず離れていったことがトラウマとなり、安全保障上の観点からも、ウクライナをつなぎとめることが至上命題になりました。

 この時、レーニンはウクライナを事実上、武力支配したにもかかわらず、かつて自らが掲げた民族自決の原則にこだわりました。そして、ソビエト国家をつくる際に、ウクライナやベラルーシなどはロシアと同列・対等に連邦を構成するべきであると主張します。ロシアがウクライナやベラルーシを支配するのではないという建前にこだわったのです。

 一方、スターリンはウクライナやベラルーシを、ロシア・ソビエト共和国内部に自治区として組み込み、「一つのロシア」を実現させるべきだと主張し、レーニンと対立しました。

 現実主義者のスターリンはもはや、ポーランド、フィンランド、バルト三国などがロシアから去ってしまった以上、ウクライナやベラルーシをつなぎとめるために、甘いことをしていてはダメだと考えたのです。