今年はレーニン没後100年という節目の年だが…(写真:Phortio's/Shutterstock.com)

 今年2024年はロシア革命の指導者レーニンの没後100年の節目にあたります。しかし、プーチン大統領がこれまで、レーニンを痛烈に批判してきたこともあり、ロシアでは目立った記念祭もありません。

 プーチン大統領はレーニンを批判する一方で、スターリンを高く評価しています。これは今日のウクライナ問題と深く関係しています。プーチン大統領は「ロシアとウクライナは一体であるべき」と繰り返し主張していますが、そうなっていないのは、レーニンの民族政策が間違っていたからだというのです。

(宇山 卓栄:著作家)

ソ連が連邦制をとったのはレーニンの意向

 1922年12月30日、レーニン率いるボリシェヴィキがロシア、ウクライナ、ザカフカース、ベラルーシの4つのソビエト共和国から成るソビエト連邦を成立させました。ソ連が成立した時、ウクライナは自治共和国として、ソ連邦に参加し、一つのソ連にはなりませんでした。

 実際にはロシア・ボリシェヴィキが一党独裁を敷いており、自治などはなかったのですが、体裁上、ウクライナはウクライナ・ソビエト社会主義共和国として、ソビエト連邦の構成共和国となります。

 このような連邦制をとったのは、レーニンの意向でした。

 レーニンは1917年、ロシア革命中に「平和についての布告」を発表しました。無賠償・無併合とともに民族自決を原則としています。

 レーニンが十月革命を成功させると、バルト三国、ポーランド、そして、ウクライナ、ベラルーシがロシアからの独立を宣言します。

 彼はボリシェヴィキの指導により、これらの国々でも共産主義革命がうまくいくと楽観的に考え、遅かれ早かれ、共産主義陣営の味方になると読んでいました。

 しかし、実際には、これらの国々で、一部の共産主義者の蜂起はありましたが、レーニンが期待したような革命は起こりませんでした。