一時期は消滅の危機までささやかれたオリンピックが「カネの成る木」へと大変身を遂げたのである。アメリカでのテレビ放映のために人気種目はアメリカ人が観戦できやすい時間に変更され、夏季大会の開催時期もアメリカの人気スポーツの端境期である真夏に設定されることになった。つまり、IOCは選手や観客の事よりもお金を出してくれる企業を優先させる姿勢となったのである。

サマランチを踏襲したバッハ

 物腰が柔らかく外面の良いサマランチだったが、IOCを大きくするためにはあらゆる手段を使った。彼が重用したのが91年にIOC委員となり、96年に理事となったバッハである。当然、バッハはサマランチ路線を踏襲してきた。

 2013年に会長となったバッハはコロナ禍であっても東京五輪を強行開催する姿勢を崩さなかった。五輪を開催することがIOCにとって最も大事であることを日本国民だけではなく、世界中にアピールしたも同然だった。「開催反対」の声は世界中から上がっていたが、まずは「開催ありき」で、パンデミック拡大の懸念やアスリートや観客の健康問題もIOCからすると些細なことであることが明白になった。

 それが露わになったのが、東京五輪開催前の2021年7月8日に開かれた5者協議(IOC会長、国際パラリンピック委員会会長、五輪相、東京都知事、大会組織委員会会長)の席だった。公開された会議の冒頭、バッハ会長は「緊急事態宣言はどういうものか。それがオリンピック・パラリンピックにどのようなインパクトをもたらすものかを伺いたい」と言ってのけたのである。まるで緊急事態宣言がどういうものかを知らないと思わせるような発言だった。それまで「安全・安心」を強調し続けたバッハ会長が実は実情を何も知らなかったと疑われるような発言だった。

 ドイツのヴュルツブルク生まれのバッハ会長は若い頃にはフェンシングに打ち込み、1976年のモントリオール五輪ではフェンシングフルーレ団体で金メダルを獲得している。その後、弁護士資格、法学博士号を取得。弁護士となった後はアディダス社の国際マーケティング部長などとして活躍、国際スポーツ界に人脈を広げた。

 1991年、IOC委員に就任。96年にIOC理事、2000年から04年まで副会長を務めた。そして2006年、再び副会長となり、東京が五輪開催地に決まった13年9月のIOC総会で第9代IOC会長に就任した。故サマランチ元会長にも信頼されており「五輪の商業化に拍車を掛けた男」とも形容されている。何はともあれ、東京五輪で得をしたのは、数千億円の放映権料やスポンサー協賛金を貰えるIOCだけだった。