(勢古 浩爾:評論家、エッセイスト)
平櫛田中(ひらくしでんちゅう)彫刻美術館(東京都小平市)には前から行ってみたいと思っていた。
一番はもちろん、作品がいいことだ。それに、大作「鏡獅子」を20年以上をかけて完成させたとか、100歳を超えてもまだ仕事をつづけるために巨大な原木を買ったとか、超人的な逸話を見聞きし、いつかは行ってみたいと思っていたのである。
しかし、思っていながら、なかなか行かないものである。わたしは上京して50年になるが、東京タワーにも行ったことがない。
とある日曜日、思い立ってやっと平櫛田中彫刻美術館を訪問した。
美術館がある場所は東京都小平市だが、最寄り駅は、JR中央線国分寺で西武多摩湖線に乗り換え、一つ目の一橋学園駅である。
一橋学園駅を出て、線路を渡る。商店街を電車の進行方向とは逆方向に歩く。道はべつに込み入っていない。各所に案内標識がかかっている。
日曜だからか、人通りも少なく、閑静で、よさそうな町だなと思う。放送大学の前を通りすぎると、左手にすぐ見えてくる。駅から12~13分か。
養子になる前も養子だった?
平櫛田中(ひらくしでんちゅう)という不思議な名前(号)はもちろん本名ではない。かれの出生や幼年期はいささか謎めいている。
明治5年(1872年)、岡山県の現在の井原市に、田中謙造・以和夫妻の長男として生まれた。禎造と名付けられた。前年に断髪令は出ていたが、まだ廃刀令(明治9年)は出ていず、西南戦争(明治10年)も起きていない。
11歳のとき、広島県の平櫛惣八・カヨ夫妻の養子になったが、その後も田中禎造で通した。ところが、徴兵検査を受けたときに、戸籍上は父片山理喜助、母多計(たけ)となっていることに気付いたのだという(田中家には4歳のとき、養子になったとされる)。それでもかれは、上京する26歳頃までずっと田中禎造の名を使いつづけた。