じつにややこしいのだが、つまり、平櫛田中という名前は、平櫛という養子先の名と、田中という実家(本人の意識の上では)の名を合わせた号ということである(『平櫛田中回顧談』中央公論新社、2022)。
22歳のとき、大阪の彫刻家・中谷省古に弟子入りして木彫を学んだ。24歳から2年弱、奈良に住み、古仏を見学した。いまでは仰々しく秘仏とされている仏像も、明治28年ごろは気楽に見せてくれたのである。
十一面観音像を彫った。田中(これ以降、でんちゅうと読まれたい)は、それを携えて明治30年、26歳のときに上京して高村光雲の門下生になった。
その観音像をはじめて平櫛田仲(このときは、まだ「仲」)の名で、日本美術協会に出品したが、落選した。
ここから平櫛田中の、多彩な作品の創作と、苦難の生活と、幅広い交友がはじまるのである。
上京した田中は、中谷省古の次男の下宿に同居し、しばらくのち谷中の長安寺に住んだ。西山禾山和尚の知遇を得、大きな影響を受けた。のち、岡倉天心に心酔する。
30歳のとき、水兵姿の少年が歌う「唱歌君が代」を春の美術協会に出品し、銀賞になった。500円で宮内省お買いあげになった。
しかしすべてが順風満帆だったわけではない。34歳で結婚したが、作品が売れず、借家の家賃が払えないほど困窮した。
田中は55歳のときに、長女幾久代を18歳で、長男俊郎を17歳で亡くしている。その後、「三年位は思い出しては泣いて暮らした」といっている。弟子の肺炎が感染したのだという。次女の京子(たかこ)も罹患したのだが、彼女だけ助かったことが、まだしも不幸中の幸いだった(『回顧談』)。
高さ2メートルの代表作・鏡獅子
わたしは好きな画家や彫刻家の作品をたまに見に行く。
最近は奈良県立美術館の「漂泊の画家 不染鉄」展と、台東区谷中にある、「墓守」や「大隈重信像」で有名な朝倉文夫の朝倉彫塑館に行った(昔、長野の安曇野にある荻原守衛の碌山美術館にも行ったことがある)。
といいながら、所詮素人なもんだから、作品数があまりにも多かったりすると、まだあるのか、これ全部見るのか? と、途中から飽きてくるのである(だから本当の美術ファンじゃない)。
しかしこの平櫛田中彫刻美術館は、3階あるが、こじんまりとしていて、わたしにとっては作品数も適度である。