告示された東京都知事選挙の小池百合子候補が「カイロ大学」を卒業したと称していることは、周知のことと思います。
そして1972年から76年までの経緯を追えば、それがほぼ確実にあり得ないことは、当時を知る複数の人々、例えば北原百代さんから「朝堂院大覚」こと松浦良右氏まで多くの方が証言しています。
さらに、小池候補自身の著書「振袖ピラミッドを上る」に至るまで、幾多の記載でほぼバレており、世論調査などを行うと約9割の回答が「小池氏はカイロ大は出ていない」と答えるように、いまや常識化しているといってもよいかと思います。
一方、擁護派側からは「そんな50年も前のこと、いいじゃない」あるいは「どうせ学歴なんて日本でもお金で買う人もいるんだから、外国で頑張ったのならそれよりマシじゃない?」など、「学歴詐称は大したことではない」とする意見が出ています。
いやな話ですが、日本が「学歴社会」の一面を持つことは現実と思います。また実際に都知事は都税を原資とする利権を握っており、それとパイプができたサイド、エスタブリッシュメントとしては現状維持が好ましいというのが、実のところではないかと推察されます。
しかし、改めて考えてみましょう。
ある人の学識やキャリアを問われたとき、内容に一切言及せず「大学の卒業証書がある。文句あっか?」という人物が、どれほど最低最悪であることか?
学歴証明書偏重を行政トップに就けるな
私は本稿を執筆している6月23日現在、東京大学教授の職位にありますので、その観点からはっきり申します。
仮に大学に誰か人事の面接にやって来て、そこで学識や実力を問われた際、「卒業証書がここにあります。問題ありますか?」という返答の人があれば、少なくとも私は、また現実には満場一致で異論なく「不採用」一択の結論となります。
こういう鼻もちならない「学歴至上主義」みたいなものを、東京大学内部では、どうやって一掃できるか、長年にわたって議論を続けています。
例えば、何かと世間では分の悪い「東大法学部卒官僚」について、東京大学法学部長もお務めになった故・團藤重光教授がどれほど腐心しておられたか。
内実ある、実質ある教育に、本当に心を砕いておられました。
形だけの議論未満を徹底して廃し、刑事司法でも「精密司法」と呼ばれる戦後の刑事訴訟法を日英語で書き切られたのは周知のことでしょう。
それが、制度全体に責任を負うものに求められる、当然の倫理、モラルです。翻って小池候補は何を言っているか?
「大学が証明書を出しているから、それで完全無欠」。これが知事にふさわしい人間の言動といえるか考えていただきたいのです。
教育委員会を筆頭に、教育の内実に責任を持つべき首長が「紙っぺら一枚あれば、その他、測れっこない実力なんてどうでもいい」と公言するなら、これほどひどい超「学歴偏重」はありません。
明らかに、内実を問われるべき行政の首長としては不適格、いや適性を持っていない人と、この主張だけで結論づけることができます。
小池さんは学歴詐称で、刑事告発などされていますから、一身の防衛に必死なのだと思われます。
しかし、自分の学歴云々を離れ、都民の教育に責任を持つはずの首長として「学歴があるんだから、それが究極の証明」と開き直るのが、どれほど政治家として不適格か。
そういう観点が、完全に欠如しているように思われます。
これほど手ひどい「学歴至上主義」は、正直今まで一度も目にしたことがありません。