滝野川城伝承地(金剛寺) 撮影/西股 総生(以下同)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

 これまで14回にわたって東京23区内に伝わる城跡を紹介してきたが、実は東京には、第6回で紹介した渋谷城(2023年6月30日掲載)のような怪しい城跡もけっこう多い。そこで、シリーズのしめくくりとして、23区内の怪しい城から代表的なものをいくつかピックアップして紹介してみよう。

渋谷城伝承地となっている金王八幡宮

 あらかじめお断りしておきたいのだが、筆者は長らく城や中世・戦国史を研究してきた立場から、記録や伝承を検証しているのであって、伝説そのものを葬り去ろうとしているわけではない。

 また、伝承が怪しいから史跡として訪れる価値はない、などと断ずるつもりもまったくない。大河ドラマや歴史小説を味わうのと同じように、史実は史実、伝説は伝説として楽しめばよいことだと思っているし、筆者自身、そのように史跡探索を楽しんでいるので、その点はご理解いただきたい次第である。

牛込城(新宿区袋町)

牛込城伝承地。画面右手が光照寺の境内。画面奥の坂を下ったあたりが神楽坂である

 神楽坂にほど近い光照寺のあたりが、戦国期に牛込氏の居城だったと伝わる。牛込氏はもともと上野の大胡氏の一族だったが、当地に移住して北条氏に従ったという。管領上杉氏の没落にともなって武蔵に亡命し、北条方に下ったものであろう。周辺には牛込氏の由緒が他にも伝わっているので、同氏の屋敷地があったことは認めてよいだろう。ただ、それが城跡かとなると話は別である。

 北条氏の領国統治システムから言っても、牛込氏クラスの領主がいちいち自前で城を保持していたとは考えにくいし、地形を見ても城に適し場所とは思えない。むしろ渋谷城にそっくりな地形で、中世の一般的な領主屋敷と見るのが妥当である。やはり要害地形に立地し、堀・土塁などの防禦用の人工構築物を伴わなければ、「城」とは認めがたいのだ。

 おそらく、牛込氏の居所→居城→牛込城というように、話が盛られていったことと思う。実は、このパターンで屋敷地が城と誤伝されている例は、東京に限らずけっこう多い。

滝野川城(北区滝野川3丁目) 

石神井川の対岸から滝野川城伝承地を望む。川沿いは桜や紅葉の名所でもある

 石神井川に沿って建つ金剛寺の境内一帯を、滝野川城と伝承がある。治承4年(1180)に挙兵し石橋山で敗れた源頼朝は、房総に渡って勢力を盛り返し武蔵に入ったが、このとき当地に布陣した、というのだが、「城」と見なしてよいか疑問である。

 武蔵に入った頼朝の下には、江戸・河越氏の一族が帰参しているので、頼朝軍が北区のあたりを通過し、あるいは布陣したことはあったかもしれないが、滝野川への布陣は良質の史料では確認できない。金剛寺の創建が古くに遡りそうなこと、境内の東側を通る道が鎌倉街道と伝わることから、そのような「お話」が生まれたのではないか。

 また、このあたりに布陣したとしても、あくまで一時的なものだし(1日か2日)、当時は布陣地をいちいち土塁や堀で固めたりはしないから、城と称するのは無理がある。頼朝がここに布陣したかも、と想像しながら伝説を楽しめばよいのではないか。(後編につづく)