最強なのに、NO.1を取れなかった謎の男、ジャンボ鶴田——。
元『週刊ゴング』編集長の小佐野景浩氏は、誰も踏み込んでこれなかったその「謎」を解き明かすべく、取材を続けている。
「鶴田の何が凄かったのか、その強さはどこにあったのか、最強説にもかかわらず真のエースになれなかったのはなぜなのか、総合的に見てプロレスラーとしてどう評価すべきなのか――。もう鶴田本人に話を聞くことはできないが、かつての取材の蓄積、さまざまな資料、関係者への取材、そして試合を改めて検証し、今こそ〝ジャンボ鶴田は何者だったのか?〟を解き明かしていこう――」(小佐野氏)
2020年5月には588頁にわたる大作『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』を上梓。大きな反響を呼んだ。
それでも小佐野氏の取材は終わらない。2023年7月からはこの『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』に大幅加筆を施す形で、新たな証言を盛り込んだ「ジャンボ鶴田」像をオンラインメディア『シンクロナス』で配信し続けている。
今回は『永遠の最強王者ジャンボ鶴田」完全版』から、全日本プロレス入団から4ヵ月半、日本デビューすることなくアメリカ修行に身を投じたの日々から、既にその片鱗を見せていた鶴田の強さとスター性についてお届けする。
デビュー2戦目からスタン・ハンセンと3連戦
1973年3月23日夕刻、鶴田友美は修行地テキサス州アマリロに到着した。前年10月31日に全日本プロレスに入団した鶴田は4ヵ月半プロレスの基礎を学ぶと、日本でデビューすることなくドリー・ファンク・シニアがプロモーターを務める『ウェスタン・ステーツ・スポーツ・プロモーション』(通称アマリロ・テリトリー)に預けられたのである。
アマリロ空港でシニア、ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク、そして前年11月~12月の『ジャイアント・シリーズ』にNWA公認レフェリーとして参加したケン・ファーバー(日本ではハーバーと呼ばれた)の出迎えを受けた鶴田は、シニアの家に1泊して翌24日に修行の生活拠点となるホリデーイン・イーストの308号室へ。このホリデーインはシニアの顔でスペシャル・ディールになるということで多くのアマリロ・テリトリーのレスラーが住んでいた。
旅装を解く間もなく、テリーにアマリロのTVスタジオに連れていかれた鶴田はエル・タピア相手にいきなりデビュー戦をやらされた。タピアは、鶴田がまだ日本で練習していた同年2月の『ジャイアント・シリーズ結集戦』に来日したテキサス州エルパソ出身のメキシカン・レスラーで、これといった特徴もなく、身体も小さかったために扱いは前座止まりだった。
当時のアメリカのTVマッチは日本と違って完全にプロモーション用。売り出すレスラーの引き立て役として明らかに格下のレスラーを当てて、その強さをアピールするというのがTVマッチの目的で、タピアは引き立て役のTVマッチ要員だった。もしかしたら鶴田とタピアが来日中の2月に日本で手合わせのスパーリングをしていたことも考えられる。
TVマッチの第3試合に出場した鶴田は、日本で身に付けた基本的なプロレスでタピアと戦い、6分52秒にサイド・スープレックスからの体固めでデビュー戦を白星で飾った。なお、当初の鶴田のリングネームは本名のトモミ・ツルタ。しかしアメリカ人にはトモミは発音しづらいようで、トミー・ツルタの名前が定着した。
3月26日のエルパソにおけるデビュー第2戦は、のちに全日本プロレスで三冠ヘビー級王座や『チャンピオン・カーニバル』の覇権を争うなどライバルとなるスタン・ハンセンに勝利。その後も3月30日=オクラホマ州ガイモン、4月1日=ニューメキシコ州クロービスでもハンセンとのシングルマッチ(いずれも試合結果不明)。デビュー戦後はハンセンと3連戦だったのだ。
ハンセンはドリー&テリーが卒業したウェスト・テキサス大学の出身。大学卒業後にはNFLのボルティモア・コルツ、サンディエゴ・チャージャーズでプレーしたが芽が出ず、72年9月の新学期からニューメキシコ州ラス・クルーセスでグレード7(7年生=日本では中学1年生)の体育の教師とフットボールのコーチをしていた。
そんなハンセンにプロレスラーになることを薦めたのは大学の7年先輩のテリーだ。プロフットボーラーには見切りをつけたが、まだ23歳でエネルギーが有り余っていたハンセンは、新たな可能性と高収入を求めてプロレスラーになることを決意した。
教師を辞めてアマリロに向かったハンセンはシニア、ドリー、テリーのファンク一家、ベテラン・レスラーのゴードン・ネルソンのコーチを受けて、73年1月1日、エルパソでアレックス・ペレスと組んでニック&ジェリーのコザック・ブラザーズ相手にデビュー。鶴田がアマリロに行った時、ハンセンはデビュー3ヵ月足らずのグリーンボーイだったわけだ。
「ファンクスはジャンボにチャンスを与えたかったんだと思う。そこで前年ミュンヘン・オリンピック日本代表になったジャンボのグレコローマン・レスリングのテクニックを確認したかったのだろう。まだグリーンボーイだった私は、ジャンボに投げられて受け身が取れなかったよ」と、ハンセンは当時を振り返って苦笑する。