最強なのに、NO.1を取れなかった謎の男、ジャンボ鶴田——。
元『週刊ゴング』編集長の小佐野景浩氏は、誰も踏み込んでこれなかったその「謎」を解き明かすべく、取材を続けている。
「鶴田の何が凄かったのか、その強さはどこにあったのか、最強説にもかかわらず真のエースになれなかったのはなぜなのか、総合的に見てプロレスラーとしてどう評価すべきなのか――。もう鶴田本人に話を聞くことはできないが、かつての取材の蓄積、さまざまな資料、関係者への取材、そして試合を改めて検証し、今こそ〝ジャンボ鶴田は何者だったのか?〟を解き明かしていこう――」(小佐野氏)
2020年5月には588頁にわたる大作『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』を上梓。大きな反響を呼んだ。
それでも小佐野氏の取材は終わらない。2023年7月からはこの『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』に大幅加筆を施す形で、新たな証言を盛り込んだ「ジャンボ鶴田」像をオンラインメディア『シンクロナス』で配信し続けている。
今回は 『「永遠の最強王者 ジャンボ鶴田」完全版』から、ミュンヘン五輪に出場した鶴田が、全日本プロレスに「就職」した経緯をお届けする。
五輪出場は就職のための学歴
1972年8月、ミュンヘン五輪レスリング・グレコローマン100㎏以上級出場を経て、10月31日の赤坂プリンスホテル『桂の間』で日本アマチュア・レスリング協会の八田一朗会長、中央大学レスリング部の関二郎監督同席の上で全日本プロレス入団会見に臨んだ鶴田友美は「プロレスは僕に最も適した就職だと思い、監督と相談の上、尊敬する馬場さんの会社を選びました」と挨拶した。
この挨拶は当時のプロレス関係者を驚かせた名言として知られている。それまでのプロレス入りは「団体への入門」だったが、鶴田は「会社への就職」と言ったのである。徒弟制度的だった日本プロレス界に一石を投じる言葉だったのだ。
隣で聞いていたジャイアント馬場は、驚きつつもプロレスに中大法学部のエリートが就職するようになったと思うと悪い気はしなかったという。
だが、その一方で、これがのちには鶴田=サラリーマンレスラーというマイナスイメージを生むことになってしまう。
実際、鶴田にとって全日本入りは就職以外の何物でもなかった。バスケットボールを辞めてレスリングを始めた時点で「五輪に出場してからプロレスラーへ」という未来図を描いていたというのだ。
「将来、プロレスをやるためにバスケットボールに見切りをつけてレスリングに転向したんですけど、幸いにもオリンピックに行けたから箔が付きました」と鶴田から直接聞いたのは佐藤昭雄である。
佐藤は69年7月に16歳で馬場の弟子になり、70年5月に日プロに入門した馬場の秘蔵っ子。デビュー前から馬場の付け人を務め、当時はキャリア2年の新鋭だった。鶴田にとってはすぐ上の先輩に当たるが、年齢的には2歳下ということもあって、心を許せる存在だったのだろう。
中大レスリング部主将で鶴田の同期だった鎌田誠は「鶴田は“レスリングでオリンピックに出て、箔をつけてプロレスラーになるんだ”ってことを言っていましたね。それは本音だったと思いますよ。重量級の選手が少ないグレコに絞ったのも、佐々木さんの薦めもあったと思いますけど、どこに行ったらオリンピックの代表になれるかというのを自分なりに考えたんじゃないですか? 賢い奴ですから(笑)。プロレスラーになることを意識してか、後輩を捕まえて中大のレスリング道場でスープレックスの練習をしていましたよ(笑)」と振り返る。
鶴田のライバルだった磯貝頼秀(ミュンヘン五輪レスリング・フリー100㎏以上級代表)も「僕らの時は青田刈りの時代ですから、今より早くて大学3年生の3月までに内定をもらわないと就職先がなかったんです。それに僕らの時はニクソン・ショックで就職難だったんですよ。だから僕はオリンピックに出る時点で、試験も受けて就職が決まってました。石油会社に入ったんですけど、採用人数は前年の3分の1という状況でしたね。あと教員になる道もあったんですけど、オリンピックのために教員採用の実習に行けなかったんですよ。鶴田はオリンピックに向けての合宿の時に〝将来、どうするの?“って聞いたら、その時点で〝プロレスに行く!”って言ってましたよ。逆に鶴田に〝お前の方がジェスチャーがうまいからプロレスに向いてるんじゃないの?”って言われたりして」と笑う。