最強なのに、NO.1を取れなかった謎の男、ジャンボ鶴田——。
元『週刊ゴング』編集長の小佐野景浩氏は、誰も踏み込んでこれなかったその「謎」を解き明かすべく、取材を続けている。
「鶴田の何が凄かったのか、その強さはどこにあったのか、最強説にもかかわらず真のエースになれなかったのはなぜなのか、総合的に見てプロレスラーとしてどう評価すべきなのか――。もう鶴田本人に話を聞くことはできないが、かつての取材の蓄積、さまざまな資料、関係者への取材、そして試合を改めて検証し、今こそ〝ジャンボ鶴田は何者だったのか?〟を解き明かしていこう――」(小佐野氏)
2020年5月には588頁にわたる大作『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』を上梓。大きな反響を呼んだ。
それでも小佐野氏の取材は終わらない。2023年7月からはこの『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』に大幅加筆を施す形で、新たな証言を盛り込んだ「ジャンボ鶴田」像をオンラインメディア『シンクロナス』で配信し続けている。
第六回となる今回は、大学時代の同期・鎌田誠氏と「鶴田が勝てなかった男」磯貝頼秀氏の証言から最強王者の強さに迫る。
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中大レスリング部主将・鎌田誠の証言
「3年生の後半には、私はもうキャプテンになることが決まっていたので、監督と一緒にまず自衛隊の佐々木さん(佐々木龍雄・自衛隊体育学校でジャンボ鶴田にレスリングを指導した人物)のところに行って〝ウチの部に入れたいので、そういう動きをするから了解してほしい〞と。それから大学のほうに根回しをして〝今のレスリング部は選手層が薄くてギリギリでやっているけど、鶴田が入ってきたら優勝する可能性があるから、なんとか頼む〞と。そういうお願いをしていました。いろんなところから了解をもらって、正式に部員として迎えました」
当時の中央大学レスリング部主将の鎌田誠の尽力で、鶴田は3年生の終わりに晴れて中大レスリング部の一員になった。
実際、レスリングの選手としての鶴田の力量はどうだったのか? 鶴田は100㎏以上級、鎌田は90㎏で階級は違ったが、よく練習はやったという。
「最初の頃はね、やっぱり線が細かったっていうか、フリースタイルでやったらすぐにひっくり返っちゃったりしてましたけどね。でも、レスリングっていうのは力だけじゃなくてフェイントかけたりしてスパッと入ったりしますから、そういうところはやっぱりバスケの選手だなっていう。普段はのろい感じだけれども、瞬間的にフェイントをかけて入るあたりは〝おっ!〞と思うところはありましたね。彼はボディビルなんかもやっていて、鍛えてからは技がかからなくなりましたよ」
鶴田はフリーとグレコの両方をやっていたが、主にしていたのはグレコだった。
「フリーの場合、相手の下半身にバーンとぶつかってタックルで入り、それで倒すっていうのが基本中の基本なんですよね。でも、正直、鶴田はタックルがそんなに上手じゃなかったんです。グレコの場合は差しですね。相手の脇の下に手を入れてねじり倒すっていうのが基本です。鶴田はグレコを意識するようになってから差し技とかね、すかして腕を取って後ろに回るとかの立ち技が中心になりましたね」
そして鎌田は、鶴田にグレコを勧めたのは佐々木ではないかと言う。
「グレコを勧めたのは佐々木さんでしょう。当時、グレコの重量級の選手は、そんなに多くなかったんですよ。100kg以上の人は、せいぜい各大学にひとりいるぐらいですね。ウチは90kgが3人ぐらいいたのかな。だからライバルは10人ぐらいだったと思いますよ。それをマークしていけば優勝できるっていう頭があったんじゃないですか」
100㎏以上級だから体重制限がない。私生活の鶴田は高校時代と同じように食べまくっていたようだ。
「100kg以上級になると、外国人選手では120、130がザラにいましたよ。鶴田は100ちょっと越えたぐらいだと思いますけどね。そんなに減量とかはしないで、計量するまで2〜3日間、3食のうちの1食抜くぐらいの調整でしたよ。そんなに体重が増えなかったと思います。もうちょっと増やしてもいい感じがしましたけどね。でも大食いでしたよ。ライスのお代わり自由の店を見つけてくるんですね。そういうのに付き合わされました。酒は弱かったですよ、たぶん。ちょっと飲んだら真っ赤になってましたからね。我々はビール飲んで焼き鳥食ってたけど、鶴田はちゃんと飯を食ってた。〝酒飲まないでよく食えるな?〞って。練習以外ではワイワイやるよりも本を読んでいたり、音楽を聴いてましたね」